太田述正コラム#11802(2021.1.26)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その43)>(2021.4.20公開)

 「<1353年>6月9日、・・・南朝<は>二度目の京都占領<を果たした。(注73)>・・・

 (注73)「楠木正儀、山名時氏らが二度目の京都奪還を果たすも短期間で駆逐される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%9C%9D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
 山名時氏(1298/1303~1371年)。「足利氏の姻族である上杉氏との縁戚関係・・足利尊氏・直義兄弟の母である上杉清子は母方の従姉妹に当たる・・などから、新田一族の惣領である新田義貞には従わずに、足利尊氏の後醍醐天皇からの離反、湊川の戦いなどに参加、その功で・・・1337年・・・には名和氏の本拠である伯耆守護に任ぜられる。その後も南朝との戦いで楠木正行、名和氏の掃討などを行い、・・・1341年・・・の塩冶高貞討伐で功績を挙げ、その功で丹後・出雲・隠岐守護となり、・・・1347年・・・に楠木正行と戦い敗北したが、翌年に若狭守護となる。
 ・・・1350年・・・観応の擾乱が起こると、時氏は初め師直を推して直義排斥のクーデターにも参加するが、12月に京都を脱出して南朝に属し、師直を滅ぼした直義に従う(ただし、出雲にいた嫡男・師義は離反して尊氏に従っている)。翌・・・1351年・・・に直義が死去すると一時は将軍派に転身するが、出雲や若狭守護職を巡る佐々木道誉との対立もあり、・・・1353年・・・には師義と共に室町幕府に対して挙兵して出雲へ進攻、6月には南朝の楠木正儀らと共に足利義詮を追い京都を占領するが、7月には奪還される。
 時氏は領国に撤退した後、尊氏の庶子で一時は九州で影響力を持っていた足利直冬を奉じ、翌・・・1354年・・・12月には斯波高経や桃井直常らと再び京都を占領するが、撤退。その後は山陰において、幕政の混乱にも乗じて影響力を拡大して播磨国の赤松則祐とも戦う。
 幕府では細川頼之が管領に任じられ、南朝との戦いも小康状態になると、大内氏や山名氏に対して帰順工作が行われ、時氏は領国の安堵を条件に直冬から離反、・・・1363年・・・8月には子・氏冬と時義を上洛させ、大内氏に続いて室町幕府に帰順、時氏は伯耆・丹波守護に、師義は丹後、氏冬は因幡国、時義は美作国守護に任命され(後に次男・義理に交代)、山名氏は5か国の守護となった。また、引付頭人にも任じられ幕政に参加した。翌・・・1364年・・・3月には若狭の今富名が与えられて若狭守護ではない時氏が小浜などの同国の主要地点を掌握した<。>幕府では義詮正室の渋川幸子や、同じく幕府に帰順した斯波義将、大内弘世ら共に反頼之派の武将であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E6%99%82%E6%B0%8F
 楠木正儀(まさのり。1330/31/33~1388/1389年)は、「父・兄と並ぶ南北朝時代最高の名将で、南朝総大将として北朝から京を4度奪還。また、鑓(槍)を用いた戦術を初めて普及させ、兵站・調略・後詰といった戦略を重視し、日本の軍事史に大きな影響を与えた。一方、後村上天皇の治世下、和平派を主宰し、和平交渉の南朝代表を度々担当。後村上天皇とは初め反目するが、のち武士でありながら綸旨の奉者を務める等、無二の寵臣となった。しかし、次代、主戦派の長慶天皇との不和から、室町幕府管領細川頼之を介し北朝側に離反。外様にも関わらず左兵衛督・中務大輔等の足利将軍家や御一家に匹敵する官位を歴任した。三代将軍足利義満に仕え、幕府の枢要河内・和泉・摂津住吉郡(合わせてほぼ現在の大阪府に相当)の二国一郡の守護として、南朝臨時首都天野行宮を陥落させた。頼之失脚後、南朝に帰参、参議に昇進、399年ぶりの橘氏公卿として和睦を推進、和平派の後亀山天皇を擁立。没後数年の・・・1392年・・・に南北朝合一が結実。二つの天下に分かれ約56年間に及んだ内戦を終結させて太平の世を導き、その成果は「一天平安」と称えられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E5%84%80

 義詮は美濃国垂井(たるい)まで落ち延び、そこに北朝の行宮を設置した。
 ・・・6月12日には高師詮の軍勢が京都西山で山名軍と交戦し、師詮が戦死した・・・。・・・
 師直の遺児である・・・師詮の戦死によって、師直の系統は断絶した。
 以降の高一族は師泰および師秋の二系統が生き残り、幕府の奉公衆(将軍直属の軍事力)として残存する。
 しかし、執事として一族を挙げて政治に軍事に強大な力を発揮した師直期の勢いはまったく見られなくなった。
 だが師詮の戦死は単に高一族の衰退にとどまらず、先代鎌倉幕府以来の御内人政治の終焉も意味した。・・・
 筆者は高師直を幕府の基礎を築いた改革派政治家として高く評価するが、所領や守護分国支配のあり方などで旧体制のあり方を踏襲した・・・という側面も看過できないと思う。
 また得宗家の御内人は高い権勢を誇ったがゆえに、有力御家人と対立を深め、時折紛争を起こした。
 すなわち、御内人の存在自体が政治の不安定要因となったのである。
 こういうところも、観応の擾乱の原因の一部となった師直と共通している。・・・
 高一族の衰退が、皮肉にも室町幕府の変革を推進したのである。・・・」(200~103)

⇒そうなのではなく、足利尊氏/義詮≒高一族≒足利直義/直冬/基氏、つまりは足利氏嫡流総体、が、基本的に「旧体制のあり方を踏襲した」ことが、室町幕府の時代全体を広義の戦国時代化してしまったのです。
 「基本的に」というのは、それが、北条得宗家による権力簒奪後の鎌倉幕府への回帰だけではなく、承久の乱で敗れた後鳥羽上皇が追求したところの、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想が実現されつつあった鎌倉幕府初期の体制、すなわち、清和源氏の嫡流筋が武家総棟梁として日本の権力を担い、日本の封建社会化の完遂を目指す体制、への回帰でもあったからです。
 しかし、元寇の時点までに日蓮が気付いたように、鎌倉時代中期までには、日本の軍事力は日本を防衛するためだけであれば過大なものになっており、日本を再中央集権化(脱封建社会化)させつつ、その軍事力を(人間主義普及を伴う広義の、かつ中長期的な、安全保障目的、で)対外的に活用する必要が出てきていたのです。
 しかし、元寇後においても北条得宗家はそれをやらなかった、だからこそ、後醍醐天皇がそれを行おうとして鎌倉幕府を打倒したというのに、後醍醐の真意を知ってか知らずか、その時計の針を巻き戻してしまったのが、足利氏嫡流総体であった、そしてその結果、理の当然として、日本国内の過大な軍事力は、非合理的にして非生産的なる内戦の恒常化という形で費消されることとあいなってしまった、というわけなのです。(太田)

(続く)