太田述正コラム#11812(2021.1.31)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その48)>(2021.4.25公開)

⇒要するに、足利尊氏・義詮は、地方分権化/封建社会化を完遂させるであろうところの諸制度を導入したわけですが、それが、安全保障の観点からは既に過剰であった武士ないし武士的な者の一層の過剰を生み出し、室町幕府発足とともに事実上始まった戦国時代が、やがて本格的な戦国時代へと移行していくことになるのです。(太田)

 「・・・所領安堵も変質した。・・・
 直義が失脚し<た>・・・以降の所領安堵は、守護の推薦状があれば即時に行われるようになった。・・・
 朝廷の官職の任命方法も変化した。
 ・・・直義期の任官は寺社の修造などを請け負った褒賞として行われる、いわゆる「成功(じょうごう)」というシステムであった。・・・
 だが、擾乱以降は、北朝-室町幕府の武家任官も・・・戦場で積んだ勲功に<対する>恩賞・・・として堂々と行われるようになった。・・・
 以上、観応の擾乱以降の政治体制の変化を瞥見してきたが、一言でまとめれば、「諸政策の恩賞化」なのではないだろうか。
 幕府に奉公して忠節を尽くせば、必ず何らかの形でその努力に報いる。
 それは武士だけではなく、寺社や公家に対しても同じである。・・・
 忠節を続けていれば、必ず何らかの形で権益を与えられる。
 万一敵対しても、帰参すれば決して悪いようにはされない。
 自分が殺されたとしても、最低限、家の存続は許される。
 こうして、多くの武士が幕府へ馳せ参じた。
 それが、義満以降しばらく続く幕府の全盛期の実態であったと筆者は考えている。
 そうした変化の大きな契機となった意味で、観応の擾乱は室町幕府にとって有意義な試練だったのである。」(242~243、246、248)

⇒花田卓司(注82)は、「観応の擾乱<の過程で、>・・・観応年間以前の足利一門守護・大将と外様守護との間にあった所領給付権限上の相違は解消へ向かうとともに、闕所地処分権・半済給付権は守護職に伴う権限であるとの認識が形成されていく。同時に、在地の所領秩序への守護・大将の影響力が高まったことで、幕府は国人所領に関しては守護・大将に依存しはじめるのである。・・・
 観応・文和年間を画期に足利一門守護・大将と外様守護との権限上の相違が解消していく傾向は、戦功注進権など他の権限についても認められる。」(花田卓司(注)「観応・文和年間における室町幕府軍事体制の転換」より)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/hanada.pdf
と指摘していますが、私(わたし)的に言い換えれば、これは、尊氏の、係累・家臣への優しさがもたらしたところの、係累・家臣優遇政策が、観応の擾乱の過程で、次第に有力武家全てに及ぼされていくことになった、ということです。

 (注82)立命館大文(史学科日本史学専攻)、同大博士(文学)、京大院研究員(2014年~)、帝塚山大文学部講師(2016年~)、准教授。
https://www.tezukayama-u.ac.jp/teacher/gyoseki/169900.html
https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000060584373/

 清和源氏のほぼ嫡流ではあるものの一貫して利己主義的で機会主義的で打算的な家風を維持し続けてきた足利氏であるとはいえ、その足利家に、馬の骨によって簒奪される恐れがない形で、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の完遂が委ねられる運びとなったのは、同コンセンサス/構想がついに結実したわけであって、その限りにおいてはそれは嘉すべきことではあったけれど、(承久の乱の時の足利氏自身の懈怠もあって、)1世紀半もそうなるのが遅れたのは致命的だったのであり、既に、安全保障の観点からは、同コンセンサス/構想を昇華させ、権威と権力の分立を確保した上で、日蓮主義に基づく、人間主義普及のための対外侵攻を目的とするところの、日本の再中央集権化が喫緊の課題となっていたというのに、日本は、それに完全に逆行した、広義の戦国時代ともいうべき非生産的な時代を爾後2世紀にわたって経験させられる羽目になるのです。
 どちらも、半分ずつ誤っていたところの、後醍醐天皇と足利尊氏、の2人の罪は大きい、と言わざるをえません。
 そのおかげで、日本は広義の戦国時代が続くこととなってしまったところ、日本を除く非欧米世界に至っては、人間主義とも縄文的弥生人とも無縁のまま、そのほぼ全てが、ゲルマン人主導の欧米世界によって席捲され蹂躙され征服されてしまうのですからね。(太田)

(完)