太田述正コラム#11822(2021.2.5)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その5)>(2021.4.30公開)

⇒興福寺はそもそも藤原摂関家の影響下にあり、この時は、天台宗内の有力者2人も摂関家の傍流同士だったというのに、三つ巴の争いになったのは、藤原氏、就中その摂関家が権力を天皇家に奉還したことに伴う、摂関家の精神的弛緩がもたらしたものなのであって、30数年後の1156年の、摂関家の兄弟喧嘩がその一要因となったところの、保元の乱の不吉な前兆だった、と言えるのではなかろうか。(太田)

 43代寛慶(1044~1123年)は、「右大臣藤原俊家の三男。母は藤原季範の娘。・・・10月に延暦寺の悪僧の行動に対して白河法皇から解決策を求められた天台座主の仁豪が治安の安定化策を進め、これを受けた大衆が「悪事の停止」に関する奏状を法皇に提出したところ、無動寺を代表する寛慶は奏状への署名を拒否して白河法皇に対して異論を提出した。その後、座主・僧綱らの会議でも座主が責任をもって綱紀粛正を図るために権力を集中させようとする仁豪と東塔・西塔・横川・無動寺がそれぞれの責任で綱紀粛正を行うべきだとする寛慶が対立した。・・・1113年・・・には法性寺座主に任ぜられる。この年、延暦寺の大衆が清水寺を破却し、興福寺の僧兵が抗議の強訴を行った永久の強訴が行われ、興福寺側から事件の張本人として天台座主の仁豪とともに寛慶の配流が求められたが、平忠盛らの活躍で興福寺の強訴は鎮圧された。ところが、寛慶は清水寺の破壊の責任は仁豪にあると主張して天台座主の辞任を求め、これに同調した大衆が強訴を起こしたものの平忠盛ら検非違使によって追い返された。その後も仁豪の命令に従わず、翌・・・1114年・・・7月には大衆同志の衝突が起きたため、仁豪が寛慶による座主職奪取の企てであると白河法皇に訴えている。・・・1121年・・・10月6日・・・、仁豪に代わって天台座主に任じられ・・・た・・・が、翌・・・1122年・・・8月には延暦寺と園城寺の対立の際の対応を巡って今度は根本中堂の大衆が寛慶を襲撃したため、比叡山を一時退去するも10月には帰山した。・・・1123年・・・に天台座主在位のまま死去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%85%B6

⇒仁豪も寛慶も治天の君たる白河上皇が任命した天台座主である・・そもそも天台座主は、「3世円仁からは太政官が官符をもって任命する公的な役職とな<っていた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%BA%A7%E4%B8%BB
・・であるところ、仁豪と問題を起こした寛慶を、どうして、上皇があえて後任に据えたのか不可解至極だが、恐らくは、摂関家からの強い要請があったのではないか。
 いずれにせよ、永久の強訴を挟む、興福寺と天台宗の長期にわたるゴタゴタは、摂関家の弛緩がもたらしたもの、と私は見ているところ、そのとばっちりを白河上皇がもろに受ける羽目になった、といったところだろう。(太田)

 45代仁実(1091~1131年)は、「藤原公実<(注7)>の次男。母は藤原光子(藤原隆方女)。待賢門院藤原璋子の同母兄。・・・鳥羽天皇・崇徳天皇の護持僧を務めた。1123年・・・33歳の若さで天台座主に就任したが、これは40歳未満の天台座主就任の初例とされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%AE%9F

 (注7)1053~1107年。「藤原北家閑院流<。>・・・白河院とは従兄弟に当た<り、>・・・妻光子は堀河・鳥羽二代の乳母となった。・・・1107年・・・に甥が鳥羽天皇として即位した時、公実は・・・幼帝の外舅の地位にある自らこそ摂政に就任すべしと主張した<が相手にされなかった。>・・・
 <しかし、彼の息子の、>実行は太政大臣、実能は左大臣、末娘<の>璋子は鳥羽天皇中宮<になり、公実は>、三条・西園寺・徳大寺の三清華家の共通の祖となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%AC%E5%AE%9F

⇒公実自身は1107年に亡くなっているが、仁実が鳥羽天皇・崇徳天皇の護持僧を務めたのも、天台座主に就任したのも、摂関家に取って代われない、閑院流に対する罪滅ぼしの一環として、白河上皇(~1129年)と摂関家が、共同で行った「補償」措置の一つだろう。(太田)

 48代行玄(1097~1155年)は、「父は藤原師実<(注8)>。・・・1138年<に>天台座主<。>・・・師の1人である寛慶はかつて当時の天台座主である仁豪に反対する指導者として永久年間に延暦寺における内紛を引き起こした経緯があり(→永久の強訴)、延暦寺内部にはその門人である行玄に反対する勢力もあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E7%8E%84

 (注8)1042~1101年。「藤原頼通の六男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E5%AE%9F

⇒頼通が強行したけれど失敗したところの、摂関家からの天台座主の送り込みに、頼通のひ孫の忠実(注9)が、その父師通(注10)、及び祖父の師実、に代わって、ようやく、しかし、かろうじて、成功した、というわけだ。

 (注9)1078~1162年。「藤原師通の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E5%AE%9F
 (注10)1062~1099年。「藤原師実の子。官位は従一位、関白、内大臣。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E9%80%9A

 しかし、行玄の天台座主在任中に祇園闘乱事件(注11)が起きる。

(続く)