太田述正コラム#11824(2021.2.6)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その6)>(2021.5.1公開)

 (注11)「1147年・・・6月15日、祇園臨時祭の夜に平清盛は宿願の成就を祈って、田楽を奉納しようとした。田楽の集団には平氏の郎党が護衛として同行したが、祇園社の神人に武具の携行を咎められたことから小競り合いとなり、放たれた矢が宝殿に突き刺さり多数の負傷者が発生する騒ぎとなった。・・・26日に・・・祇園社の本寺である延暦寺の所司が参院して闘乱の事を訴えた。これに対して<清盛の父の>忠盛は先手を打って、下手人7人の身柄を院庁に差し出し、<鳥羽>法皇はこれを検非違使庁に引き渡した。
 しかし延暦寺は納得せず、28日、大衆が日枝社・祇園社の神人とともに神輿を押し立てて、忠盛・清盛の配流を求めて強訴を起こした。法皇は大衆の入京を阻止するため、源光保らの軍兵を切堤の辺に向かわせて防備を固めた。・・・法皇は・・・院宣を下し、三日以内に道理に任せて裁決すると約束したため、大衆は一旦引き下がった。
 30日の夕方、・・・議定が開かれた。・・・8日、・・・法家に清盛の罪名を勘申するよう宣旨が下った。
 一方、裁決の遅れに憤激した延暦寺の大衆は、再び強訴の態勢に入った。法皇は天台座主・行玄に大衆を制止するよう院宣を下し・・・、15日には北面武士を西坂下に、「諸国の兵士」(畿内近国の国衙の武士)を如意山路並びに今道に配備して、大衆の入京を断固阻止する姿勢を示した。武士は3日交替で厳重な警戒に当たり、洛中では大規模な閲兵と行軍が数次に渡って展開された。
 23日<と>・・・24日の議定も・・・結論が出なかったが・・・法皇が裁決を下し、清盛を「贖銅三十斤」の罰金刑に処すことが決まった。27日、闘乱を謝罪する奉幣使が祇園社に派遣され、8月5日には贖銅の太政官符に捺印の儀式があり、事件に一応の区切りがつけられた。
 延暦寺の大衆にとっては大いに不満の残る結末となり、怒りの矛先は強訴に協力的ではなかった寺内の上層部に向けられた。延暦寺では11日から13日にかけて、無動寺にあった天台座主・行玄の大乗房が大衆に襲撃される騒動が勃発し、以後3ヵ月に渡って内紛が続くことになる。法皇は延暦寺の不満を宥めるため、翌・・・1148年・・・2月20日、祇園社で法華八講を修し、忠盛も関係修復を図って自領を祇園社に寄進した。
 忠盛・清盛にとって延暦寺の強訴の対象とされたことは重大な危機だったが、鳥羽法皇の庇護により配流を免れたことで、その信任ぶりを周囲に誇示することになった。ただし清盛はこの時の影響が悪い意味で大きかったのか保元の乱の後まで官職の任替と昇進が止まっている。鳥羽法皇にとっても、白河法皇が手を焼いた延暦寺の強訴を事実上斥けたことは大きな自信となり、強訴に対抗する武力の有効性・重要性を再認識したと思われる。・・・1148年・・・正月28日の宣旨では、衛門府・兵衛府・馬寮などの武官職が増員され、武士の中央への進出が加速することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E9%97%98%E4%B9%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒「12歳で従五位下・左兵衛佐に叙任」されていた清盛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B
が、「武官以外のものが京の中を武器を持って歩くことは・・・禁じられている」
https://books.google.co.jp/books/about/%E6%B0%B7%E8%BC%AA_%E4%B8%8A.html?id=uSUIBAAAQBAJ&printsec=frontcover&source=kp_read_button&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false
ことを知らなかったとは考えにくいところ、この頃は、既にこの禁忌が守られなくなってたのではないか。
 祇園社の神人の中にこの死文化しつつあった禁忌を持ち出して、清盛の郎党達を激高させ騒ぎを起こさせたプロバカートルを送り込んだのは、天台座主の行玄で、それは、白河上皇と藤原忠実の指示を受けてのものだったのではないか、というのが、私の想像だ。
 その目的は、父為義が自分の不始末のせいで昇進が遅れ、為義本人どころか、その嫡男の源義朝の将来の武家総棟梁指名さえも黄信号が灯っていたことから、それを妨げかねない、平清盛の立身出世、を凍結させるところにあった、と。
 この目的は達成できたわけだが、マッチポンプ役を演じた行玄は、結果的に燃え上がった大衆達の鬱憤のはけ口にされてしまい、以後、摂関家は、天台座主に自分達の子を送り込むことを停止することを余儀なくされた、とも。(太田)

 61代顕真(1131~1192年)は、「父は右衛門権佐藤原顕能<(注12)>。母参議藤原為隆娘。・・・1190年・・・に・・・天台座主」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E7%9C%9F

 (注12)1107~1139年。顕隆の子にして、七つの系譜を通じて今上天皇の直系祖先。
https://rekishi.directory/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A1%95%E8%83%BD
 藤原(葉室)顕隆(1072~1129年)。「藤原北家高藤流(勧修寺流)、参議・藤原為房の次男。官位は正三位・権中納言。葉室家の祖。・・・父・藤原為房と同じく白河法皇に近臣として仕える。・・・
 自らの官職を越えて重要な政策の決定に関わった。『今鏡』によれば、それが夜になってからのことが多かったため、世上「夜の関白」とあだ名されたという。『中右記』には「天下の政、この人の言にあり」とまで述べられており、院政期を代表する政治家の一人である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A1%95%E9%9A%86
 不比等-房前-真楯-内麻呂-冬嗣-良門-高藤-定方-朝頼-為輔-宣孝-隆光-隆方-為房-顕隆-顕能-顕真https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B8%8D%E6%AF%94%E7%AD%89 以下

⇒再びほとぼりの冷めた頃合いを見計らって、北家摂関家の傍流どころか、羹に懲りてあえ物を吹く類で、北家の傍流から、但し、実力で権力者にのし上がったところの、顕隆の孫の顕真を、摂関家の片割れの九条家が、露払いとして、天台座主に送り込んだといったところか。(太田)

⇒62、65、69、71代慈円(1155~1225年)については、改めて説明の要はあるまい。
 ついに、九条家は、慈円によって、摂関家の積年の課題を達成したことになるが、その時には、既に、比叡山の兵力を摂関家のコントロール下に置くという当初の目的を追求する意義は大幅に低下していた、という皮肉な結果になった。
 そのことが分かっていた近衛家は、手を引いた、ということではなかったか。(太田)

(続く)