太田述正コラム#11826(2021.2.7)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その7)>(2021.5.2公開)

○鎌倉仏教

 親鸞(1173~1263年)は、「日野有範の長男として誕生する。母については同時代の一次資料がなく、江戸時代中期に著された『親鸞聖人正明伝』では清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「貴光女」としている。・・・
 1181年・・・9歳、叔父である日野範綱に伴われて京都青蓮院に入り、後の天台座主・慈円(慈鎮和尚)のもと得度・・・する。・・・
 出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9E
 日野家は、「藤原北家日野流嫡流」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%AE%B6
 「九条兼実・・・は法然が唱える悪人正機の教えに少々信がおけなかった。そこで、自分達のような俗人や、戒を破った僧までもが本当に念仏を唱えることで極楽浄土に往生できるのか確かめようとした。法然の弟子の僧と自らの娘を結婚させてその僧を破戒僧にしてみようと考えたのである。本当にそれでもその僧は浄土に往生できるのかを確認しようとしたのである。そのような破戒僧でも往生できるのならば自分のような俗人でも往生できるであろうと。その話を法然に持ちかけたところ、法然は、かつては兼実の弟である天台宗の慈円の弟子でもあった綽空(のちの親鸞)を指名し、あまり乗り気ではなかった綽空を説得して兼実の娘の玉日と結婚させ、兼実を安堵させた。・・・
 1207年・・・2月に起こった専修念仏の弾圧(承元の法難)では、法然の配流を止めることはできなかったが、配流地を自領の讃岐に変更して庇護した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AE%9F

 道元(1200~1253年)は、「一時定説化した仏教学者・大久保道舟の説によれば、父は内大臣・源通親(久我通親または土御門通親とも称される)であり、母は太政大臣・松殿基房(藤原基房)の娘である藤原伊子であって、京都・木幡の松殿山荘で生まれたとされていた。だが、説の根拠とされた面山瑞方による訂補本『建撕記』の記載の信用性に疑義があり、上記説の優位性が揺らいだ。これを受けて、上記説では養父とされていた、源通親の子である大納言・堀川通具を実父とする説も有力になった。いずれにせよ、上級貴族、公卿の家の生まれである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%85%83
 藤原伊子(1167?~1207年?)は、 「父は関白・松殿基房。源義仲の正室で、後に源通親の側室となり道元を生んだとされる。位階は従三位。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BC%8A%E5%AD%90

⇒藤原忠通の男児達の年長組の2人である近衛基実と松殿基房は自力の道元を、年少組の2人である九条兼実と慈円は他力の親鸞を支援した、という構図だ。(系図は後出)
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 「摂関家と密着した結果として、興福寺は摂関家の内部抗争に巻き込まれることになった。
 藤原忠通・頼長の兄弟が対立した・・・1156<年>の保元の乱では、真実率いる興福寺は氏長者である頼長側に立つが、合戦には間に合わなかった。
 頼長の敗死後、真実らは所領を没収されている。
 ・・・1179<年>、平清盛はクーデターを敢行し、後白河院を幽閉した。
 この際、反平家と目されていた氏長者の松殿基房<(注13)>が流罪となった。」(6)

 (注13)「基房が幼少時に実父・忠通の下で育てられて、忠通から九条流・御堂流の有職故実を直接伝授されたこと、共に伝授を受けた異母兄の近衛基実の早世によって九条流・御堂流の口伝を知る者が基房のみになったこと、<等>・・・による。これに対して忠通の子である九条兼実や基実の子である近衛基通は共に早くに父を失ったためにこうした公事や有職故実の知識を得る機会には恵まれておらず、彼らは政治的な局面では基房と対立する場面があっても、摂関家の故実の唯一の担い手であった基房の知識や学説に対しては常に敬意を払っていた。これは基実の孫・近衛家実や兼実の孫・九条道家が嵯峨に隠棲していた基房を訪ねて教えを受けていることからでも知ることが出来る。」
 藤原忠通→近衛基実⤵-基通→家実
     –松殿基房–⤴
     –九条兼実–良経–道家
     –慈円        ※矢印は、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の口伝(想像)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%AE%BF%E5%9F%BA%E6%88%BF 等

⇒忠通は、コンセンサス/構想を基房には口伝しなかったと思われるが、基実は赤痢で亡くなる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%AE%9F
時に、基房に口伝し、それを、基房が元服後の基通に口伝した、と私は想像しています。
 つまり、兼実にはコンセンサス/構想は口伝されず、このこともあって、兼実・慈円兄弟は、後白河や後鳥羽との意思疎通に齟齬をきたし続けることになった、というのが私の見方です。
 なお、反平家の立場は、この4兄弟共通であり、近衛基実もその子基通も清盛の娘を正室にしている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%8C%E5%AD%90
けれど、それは、清盛を油断させるための策略に過ぎなかった、と、私は見ている次第です。(注14)(太田)

 (注14)基実の正室の「盛子はまだ幼く、基実が盛子との子をなす前に早世した」し、基通の正室の完子(生没年未詳!)は、「1177年・・・に男子を出産するも夭折。・・・1183年・・・7月、平家一門が安徳天皇を擁して都を落ち延びる際、基通は同行を拒否して後白河法皇の元に逃れた。完子は一門と共に西走した。・・・1185年・・・、壇ノ浦の戦いで平家一門が海中に沈む中、命を長らえた完子は建礼門院と共に都へ護送される。基通は安徳天皇に代わって擁立された後鳥羽天皇の摂政となって宮廷に返り咲くが、帰洛後の完子との関係は不明。その後の完子の記録はなく、出家したものと推測される。」(上掲)

(続く)