太田述正コラム#11850(2021.2.19)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その19)>(2021.5.14公開)

 「・・・東軍も西軍も、一枚岩の結束を誇っていたわけではなかった。
 西軍の中核たる山名宗全と畠山義就(よしひろ)の同盟が成立したのは文正の政変後であるし、東軍で重要な役割を果たす斯波義敏と赤松政則が細川勝元に急接近するのも、彼らの庇護者であった伊勢貞親の失脚を受けてのことである。
 文正の政変による将軍側近勢力の没落は政局を一挙に流動化させ、ここで初めて細川対山名の構図が鮮明になった。
 つまり両陣営とも急造の寄り合い所帯だったのであり、諸大名の二極化は大乱を必然化するものではなかった。
 では応仁の乱はなぜ起こったのか。
 ・・・関東統治をめぐる政策対立も無視できないが、遠隔地での競合は大名間での利害調整が比較的容易である。
 在京大名にとって、関東で反乱を起こした足利成氏・・・よりも畿南で暴れ回る畠山義就の方がはるかに切実な問題だったと思われる。
 よって、直接的な要因は畠山義就の上洛<(注47)>であろう。

 (注47)「1460年・・・5月10日、分国の紀伊国で根来寺と畠山軍が合戦を起こし、畠山軍が大敗した。義就は報復のため京都から紀伊へ援軍を派遣したが、9月16日に幕府から政長に家督を譲るよう命じられ、20日に河内へ没落、劣勢の為に政長に家督を奪われた上、綸旨による討伐対象に定められたことにより朝敵に貶められた。10月に大和国龍田で政長・光宣らに敗れたのち12月に嶽山城(大阪府富田林市)に籠城し、討伐に下ってきた政長、光宣、細川軍、大和国人衆らの兵と2年以上も戦った(嶽山城の戦い)。・・・1463年・・・4月15日に成身院光宣の計略により嶽山城は陥落し、義就は紀伊、のち吉野へ逃れた。
 翌・・・1464年・・・、畠山氏の家督相続を公認された政長は、勝元から管領職を譲られた。
 吉野に逼塞していた義就だったが<1463>年11月に義政により赦免された(同年8月8日に義政生母の日野重子が死去したことに伴い大赦(恩赦)が行われ、翌月9月18日に斯波義敏や日親らと共に赦免された)。義就は細川勝元と対抗する山名宗全・斯波義廉の支持を得て、・・・1465年・・・8月に挙兵。文正元年(1466年)8月25日に大和から河内に向かい諸城を落とした。大和では義就派の越智家栄・古市胤栄も挙兵して政長派の成身院光宣らと戦い、11月に十市遠清の仲介で両者は和睦した。義就は12月に河内から上洛。義政との拝謁も果たし、政長に畠山邸の明け渡しを要求し、管領職を辞任させた。翌・・・1467年・・・1月18日、両派の軍が上御霊神社において衝突し、義就は宗全や斯波義廉の家臣朝倉孝景の協力を得て政長を破った(御霊合戦)。この御霊合戦により山名方(義就・斯波義廉派。西軍)が有利となったことを危惧し、翌年には細川方(政長・斯波義敏派・東軍)が巻き返しを図った。これらに将軍家、畠山、斯波、山名、京極、土岐、六角、富樫などの諸氏の家督争いや幕府内または諸家内での権力争いなどが複雑に関与し、応仁の乱が勃発する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E7%BE%A9%E5%B0%B1 前掲

 それは応仁の乱が勃発した後、足利義政が畠山義就を帰国させることで事態の収拾を図った事実からも裏付けられる。
 ただし、義就を上洛させた山名宗全も当初の狙いは無血クーデターであり、細川方との全面戦争を企図したわけではなかった。
 事態を決定的に悪化させたのは、御霊合戦<(注48)>への山名宗全の介入である。

 (注48)嶽山城(だけやまじょう)の戦い(1460,12.9~1463.4.15)→御霊合戦(ごりょうがっせん。1467.1.18~19)→上京(かみぎょう)の戦い(1467.5.26~27)、と続く。御霊合戦からが応仁の乱。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%BD%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E5%90%88%E6%88%A6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BA%AC%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 畠山義就と政長の一対一の合戦でも義就が勝利したはずで、宗全の援軍派遣は蛇足と言わざるを得ない。
 本来、諸大名の合従連衡は防御的・保守的なもので、連合して敵を攻撃する性格を有していなかった。

⇒例えば、観応の擾乱の際の、三つの「諸大名の合従連衡」は、そのそれぞれの構成員こそ盛んに入れ替わったけれど、「連合して敵を攻撃する性格を有してい」たことは明らかであり、呉座が何を言っているのか、私には理解できません。(太田)

 だが、宗全の支援を受けた義就軍が政長軍を撃破すると、盟友の政長を見捨てた形となった細川勝元は武士としての面目を失った。
 勝元が東軍を組織して開戦を決断したのは、成身院光宣らの進言もさることながら、戦争に訴えず宗全の横暴を認めては大名連合の盟主としての声望を失うという危機感に由来する。」(256~257)

(続く)