太田述正コラム#11876(2021.3.4)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その6)>(2021.5.27公開)

 「1542<年から、>・・・6年余の内訌を、伊達天文の乱<(注16)>という。・・・

 (注16)たねむね(1488~1565年)。「伊達稙宗<は、>・・・三男・実元の越後国守護・上杉定実への入嗣や、婿の相馬顕胤への伊達領割譲などの問題をめぐって長男・晴宗や桑折景長・中野宗時ら家臣団との対立を次第に深める、・・・1542年・・・6月、ついに鷹狩りの帰途を晴宗に襲撃され、捕えられた稙宗は西山城に幽閉されたが、程なくして小梁川宗朝により救出された。稙宗は奥州諸侯を糾合して晴宗と争う構えを見せたため、奥州全体を巻き込む形で天文の乱が勃発する。この争いは当初稙宗方が優勢だったが、・・・1547年・・・に味方であった蘆名盛氏が晴宗に寝返ったことで、一転して戦況が不利に傾き、・・・1548年・・・9月、13代将軍・足利義輝の仲裁を受けて晴宗に降伏する形で和睦し、家督を晴宗に譲って丸森城に隠居することを余儀なくされた。・・・この乱の影響で、従属下にあった大崎・葛西・最上・相馬・蘆名の各氏は乱に介入して伊達家に対する発言力を増し、従属関係を脱した。また、実際には・・・晴宗との対立は収まらなかったとする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E7%A8%99%E5%AE%97

 伊達家では、次代における晴宗と輝宗(政宗の父)の伊達天正の乱<(注17)>も知られている。・・・

 (注17)「隠居したとはいえ一向に実権を手放さない晴宗に対して、当主となった輝宗は不満を隠さず、両者の間にはしばしば諍いが生じていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%99%B4%E5%AE%97
ようだが、「伊達天正の乱」なるものについては、ネット上で確認できなかった。

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[伊達氏]

 「出自は魚名流藤原山蔭の子孫と称し<たが、>・・・「桓武平氏常陸大掾平維幹(平繁盛の子)の子為賢の末」説を<や>・・・下毛野氏とする説も提唱されている。・・・
 鎌倉時代、源頼朝による奥州合戦に従軍し、石那坂の戦いで戦功を挙げた常陸入道念西が、頼朝より伊達郡の地を与えられ、伊達朝宗(ともむね)を名乗ったのが伊達氏の始まりとされている。
 鎌倉時代においては陸奥・下野・常陸の他にも出雲・但馬・伊勢・駿河・備中・上野・出羽・越後などでも地頭職を得ており、これにともない各地に庶流家が生まれた。・・・
 幕府は陸奥には奥州探題職を置き、守護は置かない方針であったが伊達稙宗は陸奥守護を望み補任された。勢いを得た稙宗は主筋にあたり奥州探題を世襲する名門の大崎氏の内紛に介入して二男の義宣を大崎氏の養子に送り込み、さらに羽州探題の最上氏も勢力圏に組みこんだ。稙宗は・・・1536年・・・に分国法の塵芥集を制定するなどして家中統制の強化に努めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%B0%8F
 伊達朝宗(1129~1199年)は、「母は六条判官源為義の娘と言う。息子に為宗、宗村(殖野為重?)、資綱、為家(駿河伊達氏の祖)らがあり、娘には源頼朝の側室・大進局(僧貞暁の母)として知られた女性がある。源為義およびその孫・頼朝と縁戚関係にあるため、「朝」の字は頼朝(またはその父で叔父にあたる源義朝)から受けたもの、また息子の名前の「為」の字も為義に由来するものと考えられるが確証はない。・・・
 治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵した際には、前述の通り、頼朝が母方の従弟という関係もあってその麾下に馳せ参じた。・・・1189年・・・の奥州合戦に際しては、4人の息子と共に前衛として出陣<している。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%9C%9D%E5%AE%97
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 戦国期の島津氏は、イエズス会士の書簡に薩摩国の「国王」と記されている。・・・
 ちなみに・・・1606<年>に至っても、当主家久・・・はシャム国からの外交文書で、「国王」と呼ばれている。

⇒「南北朝時代には、懐良<(かねよし)>親王が倭寇の取り締まりを条件に明朝から冊封を受け、「良懐」の名で日本国王の称号を受けている。懐良親王の勢力が駆逐された後は、幕府や九州の大名が「日本国王良懐」と称して対明貿易を行う変則状態が続く。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E7%8E%8B
という事情を鍛代は記すべきでした。(太田)

 戦国大名島津貴久<(注18)は、>・・・1526<年>には惣領勝久の養子となって、家督に内定した。・・・

 (注18)1514~1571年。「貴久は悲願の旧領三州(薩摩、大隅、日向)の回復こそ果たせなかったが、彼の遺志は息子達に受け継がれていた。義久は翌年には日向の伊東氏を木崎原で撃破。さらに次の年には肝付氏を服属させ、島津家は薩・隅・日三州の太守としての地位を確立させている。・・・
 島津家は室町時代から明や琉球と交易をしており、貴久も琉球の尚元王と修好を結び、ポルトガル船などから銃や洋馬を輸入し、産業事業を興した。また、貴久は永禄<(1558~1570年)>中インド総督に親書を送るなど外交政策にも積極的に取り組んだ。鉄炮が種子島氏より献上されると数年後には実戦で利用している。・・・1549年・・・に来日したフランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教許可を出している。しかし寺社や国人衆の反対が激しかったことや、期待したほどに南蛮船も訪れなかったことから、後に布教を禁止している。
 史料上、鉄砲を実戦に初めて使用した戦国大名は貴久であるとされており、入来院<(いりきいん)>氏との戦いが初見とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E8%B2%B4%E4%B9%85

⇒貴久の父の忠良は、かつて(島津氏の)総州家との争いに勝利したところの、(同左)奥州家から(同左)伊作家に養子で入った久逸の孫であり、この伊作家から(奥州家から枝分かれした)(同左)相州家に養子で入ったものです。
 そして、貴久は、この相州家から「本家」の奥州家に養子で戻ってきたものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F (太田)

 <その>貴久<が、1539年に>かつての養父勝久を両国から追放し<、>・・・1542<年>になってようやく家督として家中に公認された。
 だが、一門の庶子家からも「守護」を認められたのは、・・・<1545>年3月のことだった。
 さらに惣領家の官途「左衛門尉(さえもんのじょう)」(のち修理大夫(しゅりのだいぶ))が認められて、本拠の鹿児島に入城したのは<1550>年である。
 薩摩・大隅・日向の守護職に就いてから、すでに23年も経っていた。
 権威と実体との乖離を埋めるのに、これだけの時間を要したのである。・・・」(26、28~30)

(続く)