太田述正コラム#11880(2021.3.6)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その8)>(2021.5.29公開)

 「このような駿河国内の戦況を見て、今川家と同盟関係にあった北条氏綱<(注20)>が動<き、>・・・恵探派<は>粛清され<る。>・・・

 (注20)「氏綱は関東に勢力を拡大する一方で、父・早雲の代より形式的には主従関係にあった駿河国の今川氏との駿相同盟に基づいて甲斐国の武田信虎と甲相国境で相争った。武田氏は・・・元々扇谷上杉家と友好関係にあり、武田軍が扇谷上杉家を支援するために北条領である相模国津久井郡に侵攻したり、反対に北条軍が武田領である甲斐国都留郡(郡内地方)に侵攻する対立関係であった。・・・1535年・・・には今川家当主・氏輝の要請に応えて都留郡に出陣し、山中の戦いにおいて武田信虎の弟・信友を討ち取る大勝を収めている・・・。・・・1536年・・・に今川氏輝が急死すると家督を巡って花倉の乱と呼ばれるお家騒動が起こり、氏綱は栴岳承芳を支持した。承芳が勝利して今川義元として家督を相続するが、翌・・・1537年・・・に義元は信虎の娘定恵院を娶って甲駿同盟を成立させる。氏綱はこれに激怒して相駿同盟が破綻し、今川との抗争が勃発した(河東の乱)。後北条軍は駿河国の河東地方(富士川以東)に侵攻して占領し、これにより、今川氏との主従関係を完全に解消して独立を果たした。
 後北条氏の房総進出は小弓公方と対立する古河公方の利害と一致するものであり、小弓公方足利義明が古河・関宿への攻撃を画策すると古河公方足利晴氏は氏綱・氏康父子に対し「小弓御退治」を命じた。・・・1538年・・・10月7日、氏綱は小弓公方・足利義明と安房の里見義堯らの連合軍と戦う(第一次国府台合戦)。氏綱・氏康父子は足利・里見連合軍に大勝し、義明を討ち取って小弓公方を滅ぼし、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大することに成功した。
 ・・・古河公方足利晴氏は合戦の勝利を賞して氏綱を関東管領に補任したという。関東管領補任は幕府の権限であり、関東管領山内上杉憲政が存在する以上、正式なものにはなり得ないが、古河公方を奉ずる氏綱・氏康は東国の伝統勢力に対抗する政治的地位を得たことになる。・・・1539年・・・には氏綱は娘(芳春院)を晴氏に嫁がせ、古河公方との紐帯を強めるとともに足利氏の「御一家」の身分も与えられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E7%B6%B1
 「国持大名にこそはなれなかったものの、狭山藩<後>北条氏、が>江戸時代を通じて存続した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F
 「<初代の>関東管領<で>・・・山内上杉家の始祖<であるところの、>・・・憲顕は観応の擾乱の際に足利直義方についたために上野・越後守護の地位を奪われて一時没落するが、尊氏の死後に基氏の懇願で関東管領に復帰、その口添えで罪を許されて上野・越後守護の地位を回復した。また、越後国の国衙領の半分及び上田荘・五十公郷などの所領を有しており、関東の所領は鎌倉公方、越後の所領は室町幕府の指揮下に置かれ、結果的に2人の主君を持つ事になった。・・・<上杉家>15代当主<にして、山内上杉家11代当主>の上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%AE%B6
 「扇谷家は他の上杉諸家と同じく関東管領を継承する家格を持ったが、事実上の宗家である山内上杉家が関東管領をほとんど独占したため、室町時代の前半にはさほど大きな勢力を持った家ではなかった。・・・関東の領有をめぐり山内家との対立が顕在化し、堀越公方・政知を擁した山内家に対し扇谷家は古河公方・成氏に接近して、両家は対立する(長享の乱)。・・・1493年・・・には扇谷上杉定正の命で伊勢宗瑞(後の北条早雲)が堀越公方・政知を攻撃しているが、伊勢宗瑞(北条早雲)は伊豆において自立し子孫は後北条氏となる。・・・
 甲斐の武田信虎(信直)は両上杉氏と同盟して後北条氏と対決した。扇谷朝興は・・・1533年・・・に信虎嫡男の武田晴信(後の信玄)に娘を嫁がせて婚姻を結んでいたが、武田信虎は扇谷朝興死去の翌・・・1538年・・・に後北条氏と和睦して離反している。
 扇谷朝興の子上杉朝定は山内家と和解して後北条氏との戦いに臨むが、・・・1546年・・・河越夜戦で戦死(異説あり)し、扇谷家は滅亡した。
 扇谷家の名跡は一族の上杉憲勝が継ぎ、・・・1561年・・・山内家の家督と関東管領職を継承した越後の長尾景虎(上杉謙信)によって武蔵松山城主に据えられるが、・・・1563年・・・に後北条氏に降伏した。その後の動向は詳らかではない。
 なお、山内家の名跡を継ぐ米沢藩主上杉綱憲の実父吉良義央は扇谷家の前身である二橋上杉家の血統を引いているため、それ以降の上杉家にも扇谷家(二橋家)の血統は残っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%87%E8%B0%B7%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%AE%B6
 「小弓公方(おゆみくぼう)は、関東における足利氏基氏流の公方家のひとつ。古河公方の分家筋にあたる足利義明が一代で急成長して本家と関東の覇権を争うまでになったもので、義明が下総国千葉郡小弓城(現在の千葉市中央区生実と同緑区おゆみ野の一帯)を本拠地にしていたことがその名の由来である。義明・頼純の2代にわたって受け継がれ、後の喜連川藩の元となった。・・・
 当初は・・・小弓公方が後北条氏との連携を模索する動きもあり、必ずしも敵対していなかった。その関係が変わるのは、・・・1524年・・・に後北条氏が江戸城を占領して東京湾(内海・江戸湾)西部沿岸を完全に制圧したことにあった。内陸部に拠点を持つ古河公方と違い、東京湾東部沿岸を支配する小弓公方・・・にとって同湾の制海権を掌握しかねない後北条氏の軍事力に対する警戒感が一気に高まり、・・・後北条氏との対立を決意する。反対に義明排除を図る古河公方と東京湾の海上支配の確立を図る後北条氏の利害が一致することになり、両者が盟約を結ぶきっかけとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%BC%93%E5%85%AC%E6%96%B9
 「喜連川家は・・・名族足利氏のなかで唯一明治維新まで大名格で存続した家である(分家を入れると細川氏も含まれる)。・・・江戸期を通じて表高・実高が1万石に満たなかった唯一の諸侯<(大名)>と<して存続した。>・・・喜連川家が江戸幕府から受けてきた待遇は「大名(諸侯)」「旗本」「交代寄合」のいずれにも当てはまらず、その実態は幕藩体制における武家の身分統制から外れており、徳川将軍家との明確な主従関係すら存在しなかった(喜連川家は自身を「天下ノ客位」「無位ノ天臣」と称していた)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E9%80%A3%E5%B7%9D%E8%97%A9

 <しかし、>氏綱の出陣は公式の要請によるものではなかったので、・・・翌・・・1537<年>2月、義元は武田信虎の娘を正室として迎え、駿甲同盟を締結し、北条方との同盟を反故にしてしまったのである。
 義元はまだ19歳だった。」(33)

⇒戦国時代の関東(と越後)における、足利家、上杉家、後北条家、の三つ巴の争いの中から、喜連川家、米沢上杉家、狭山藩北条家、が明治維新まで、それぞれ、独自な形でかろうじて残った物語は、実に面白いですね。(太田)

(続く)