太田述正コラム#11894(2021.3.13)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その15)>(2021.6.5公開)

 「大大名の大内氏の権力構造は、周防は陶氏、長門は内藤氏、豊前は伯耆守系杉氏、筑前は豊後守系杉氏、石見は問田(といだ)氏というように、守護代が「国代官」として守護権限を執行していた。
 そればかりか、彼ら守護代は在地の土豪・地侍を被官として、当主大内家と競合する勢力に至った。
 したがって、・・・大内義隆<(注46)の>・・・天文12年の出雲<の尼子氏に対する>遠征<で>の大敗は、領国経営に動揺をもたらすことになった。

 (注46)1507~1551年。「母は長門守護代の内藤弘矩の娘である。・・・京都の公卿・万里小路秀房の娘・貞子を正室に迎えた。・・・1523年・・・に寧波の乱が勃発しており、その後大内氏は東シナ海の貿易を独占している。・・・
 1530年からは九州に出兵し、・・・北肥前にいた九州探題・渋川義長を攻め、渋川氏を滅亡に追い込んだ。・・・1536年・・・<念願の>大宰大弐に叙任され、北九州攻略の大義名分を得た義隆は、9月に・・・肥前多久城での戦いで少弐資元を討ち滅ぼし、北九州地方の平定をほぼ完成させた。このとき龍造寺氏の本家の当主・龍造寺胤栄を肥前守護代に任じている。・・・
 1537年・・・、室町幕府第12代将軍・足利義晴から幕政に加わるよう要請を受けて上洛を試みるが、山陰を統一して南下の動きを示していた尼子氏に阻まれ、領国経営に専念するためにこれを断念した。・・・
 1541年・・・には尼子方の安芸武田氏・・・と友田氏・・・を滅ぼして安芸国を完全に勢力下に置いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E9%9A%86

 ・・・<更に、>5月7日には、養嗣子晴持<(注47)>(はるもち)(土佐一条房冬の次男)が小舟の転覆により溺死したと伝えられる。・・・

 (注47)1524~1543年。「母は房冬の側室であった大内義隆の姉。・・・ 母方の叔父にあたる大内義隆にまだ男子がなかったため、3歳にしてその養嗣子となる。顔かたちが美しく文武に秀で和歌や管弦、蹴鞠といった雅な教養にも明るく、公家の名門一条家の血筋もあってなのか義隆に可愛がられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%99%B4%E6%8C%81

 <これらの結果、>国主義隆<は>政治への意欲を喪失<し、>義隆の側近吏僚衆と守護代との対立を惹起した。・・・
 <その>義隆は奉行人や申次を重用、重臣による評定会議の機能を失わせて専制化を志向し<てい>た。・・・
 1551<年>、・・・義隆は、・・・周防国守護代の陶晴賢<(注48)>(初名は隆房)、家老の豊前守護代杉重矩(しげのり)・長門守護代内藤興盛(おきもり)らの謀叛に遭って、・・・長門深川(ふかわ)の大寧寺(だいねいじ)において自刃した。・・・

 (注48)1521~1555年。「少年時は美男として知られ、そのため大内義隆の寵童として重用された。・・・
 1552年・・・、義隆の養子であった大友晴英(当時の豊後大友氏当主・大友義鎮(宗麟)の異母弟、生母は大内義興の娘で義隆の甥にあたる)を大内氏新当主として擁立することで大内氏の実権を掌握した。この時、隆房は晴英を君主として迎えることを内外に示すため前述の通り陶家が代々大内氏当主より一字拝領するという慣わしから、晴英から新たに一字(「晴」の字)を受ける形で、晴賢(はるかた)と名(諱)を改めている(なお、大内晴英は翌・・・1553年・・・に大内義長と改名し、のちに晴賢の嫡男・長房がその一字を受けた)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%99%B4%E8%B3%A2

 隆房の大義名分は、義隆による分国内への課税強化と京都指向の文治政治を打倒し、評定の合議制に基づいた守護大内家の再興だった。
 だから計画通り、大内義長<(注49)>・・<当時は>大友晴英・・を家督に就けたのである。

 (注49)1532?~1557年。「1543年・・・に尼子晴久との戦いで大内軍が敗走する際に義隆の養嗣子である晴持が死去したため、継嗣を失った義隆は・・・1544年・・・に姉婿である義鑑の次男である八郎晴英を猶子とした。室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱を与えられ、晴英(はるひで)と名乗る。
 晴英はあくまで養嗣子ではなく猶子であり、これは義隆に将来実子が生まれなかった場合に家督相続人とする含みを持っていたが、大友氏ではこれを歓迎した。しかし、・・・1545年・・・、義隆に実子の義尊<(よしたか)>が誕生したため、猶子関係を解消され、帰国した。・・・
 1551年・・・9月に謀反(大寧寺の変)が実行され義隆・義尊父子が殺され、大内領内における混乱がひとまず収束した後の・・・1552年・・・3月3日、山口に入って大内家の新当主として擁立された。・・・
 1555年・・・、晴賢が毛利元就との厳島の戦いで敗死すると、・・・家臣団は完全に崩壊し、大内家は急速に衰退していく。
 義長は兄義鎮に援軍を求めたが、義鎮は元就との間に大内領分割の密約を結んでいたために応じなかった。また義鎮は大内家の家督に興味を示さず、何ら野心の無い事を元就に約していたという。
 こうして後背の安全を得た毛利氏は防長経略で・・・1557年・・・3月、山口へ侵攻。義長は寡兵をもってよく防戦したが、結局・・・自害した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E9%95%B7

 ここまでの陶隆房は「天道」に導かれ、領国内の土民・商人・土豪らの支持を得たものであった。
 しかし、陶晴賢(隆房を改名)は、・・・1555<年>の厳島合戦において、毛利元就に大敗して自害した。・・・
 <その後、>大内義長を滅ぼした毛利氏の正当性の論理は、・・・主君大内義隆の仇討ちとその菩提を弔うことによる、守護公権の継承にあったのである。・・・」(52~54)

⇒陶隆房による大寧寺の変(1551年)、は、30年ほど早い、明智光秀による本能寺の変(1582年)、といった趣がありますね。
 前者は領国の大拡大期が終わった後に起こり、後者は領国の大拡大期の真っ最中に起ったわけですが、いずれも、それぞれの時期において、足利将軍に次ぐ存在であった最有力戦国武将、が、腹心たる重臣に弑逆されたわけです。(太田)

(続く)