太田述正コラム#11896(2021.3.14)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その16)>(2021.6.6)

 「斎藤利政(道三)の父西村新左衛門<(注50)>はもとは京都妙覚寺の法華僧だったが、美濃守護代斎藤氏の庶流長井氏の同名衆となり、利政が長井の惣領家を襲った・・・。・・・

 (注50)?~?年。「松波 庄五郎(まつなみ しょうごろう、生没年不詳)は、戦国時代の武将。新左衛門尉と称す。藤原北家日野家一門の松波基宗の子と称し、・・・別名、峰丸・法蓮房・山崎屋庄五郎・西村正利(勘九郎)・長井新左衛門尉。・・・
 松浪家は先祖代々北面武士を務め、父は松波左近将監基宗といい、事情によって西岡に住んでいたという。松波庄五郎は幼名を峰丸といい、11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となった。その後、法弟であり学友の日護房(南陽房)が美濃国厚見郡今泉の常在寺へ住職として赴くと、法蓮房もそれを契機に還俗して松波庄五郎(庄九郎とも)と名乗った。
 油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとった庄五郎は、油商人となり山崎屋を称した。・・・
 その後、武士になりたいと思った庄五郎は常在寺の住職となっていた(日護房改め)日運を頼み、日運の縁故を頼った庄五郎は、美濃守護土岐氏小守護代の長井長弘家臣となることに成功した。庄五郎は、長井氏家臣西村氏の家名をついで西村勘九郎正利を称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B3%A2%E5%BA%84%E4%BA%94%E9%83%8E
 「常在寺<は、>・・・1450年・・・、美濃国守護<の>・・・土岐家守護代として事実上美濃国を支配していた斎藤妙椿<(みょうちん)>が妙覚寺から世尊院日範を招き建立した。その後、戦国時代に入ると、斎藤道三が妙覚寺の僧だった長井新左衛門尉の美濃国に築いた地位を基盤として、美濃国主となりこの寺に寺領を与え保護し、発展させ・・・斎藤道三以後の斎藤氏3代の菩提寺と<なった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E5%9C%A8%E5%AF%BA_(%E5%B2%90%E9%98%9C%E5%B8%82)

⇒日蓮宗があったからこそ、斎藤二代での目覚ましい下剋上が起った、と言ってもよさそうですね。(「注51」の後段も参照。)
 その二代目の娘を正室にした信長が、日蓮宗大シンパになったのは不思議ではありません。(太田)

 1538<年>守護代家の斎藤利良<(注51)>(としなが)が病没したとき、跡継ぎがいなかった。

 (注51)?~1538年。「越前の朝倉孝景<は>・・・従兄」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%88%A9%E8%89%AF
 「藤原北家利仁流斎藤氏<は、>・・・鎮守府将軍・藤原利仁の子叙用を祖とする。叙用の父・利仁は敦賀の豪族・秦豊国の娘を母に持っていたことから、越前を中心に北陸一帯に勢力を築き、叙用の孫斎藤伊傳は越前国押領使となった。また同じく叙用の孫斎藤忠頼は加賀介に任じられたため、加賀にまで勢力を広げた。その後裔はそれぞれ越前斎藤氏と加賀斎藤氏の2系統に分かれた。
 美濃の斎藤氏は、越前斎藤氏の庶流・・・が美濃目代として越前から移り住んだのに始まるといわれる。・・・
 室町時代に美濃守護土岐氏に仕え、・・・1444年・・・閏6月に、斎藤宗円が京都の土岐屋形で富島氏を誅殺し守護代となって勢力を揮った。宗円の子・斎藤妙椿は兄・利永の死後、甥の守護代利藤を後見し、後に室町幕府奉公衆となって足利氏に直接仕え守護・土岐成頼の官位をも上回り、応仁元年(1467年)の応仁の乱では西軍の主力として各地を転戦した。 しかし、妙椿の跡(持是院家)を継いだ斎藤妙純(利国)は土岐成頼を巻き込んで利藤と守護代の座を争い、内紛をおこした・・・ため、・・・斎藤家の勢力は徐々に衰えを見せ、庶流の長井氏が台頭した。なお、妙純の娘は越前の朝倉貞景に嫁ぎ、姻戚関係となっている。また、利藤の末子・日運は京都の妙覚寺に入り、後に美濃常在寺4世となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E6%B0%8F

 ・・・1527<年>長井利政の合力によって守護職に復帰した土岐頼芸<(注52)>(よりなり)の命で、利政<(注53)>が斎藤宗家と守護代職を継いだようだ。

 (注52)1502~1582年。「土岐氏当主で兄の頼武及びその子・頼純の嫡流と対立、美濃国とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、土岐氏当主、美濃守護となった。しかし、後に重臣の斎藤道三に追放された。・・・
 幾つもの書画を書き残している。特に鷹の絵を得意とし、彼の描いた鷹の絵は「土岐の鷹」として珍重されている。・・・
 歌人の土岐善麿は・・・子孫にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E8%8A%B8
 「土岐氏(ときし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏流摂津源氏系美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた軍事貴族の系統。・・・
 足利氏の一門(細川・斯波・畠山・一色・山名氏など)には上位を譲るものの、それ以外の諸大名の中では筆頭であると自負していた。・・・
 明智光秀・坂本龍馬・浅野長矩(浅野内匠頭)はいずれも土岐支流とされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E6%B0%8F
 (注53)1494~1556年。「正室:明智光秀の叔母・小見の方 側室:深芳野ほか・・・
 子に義龍、孫四郎(龍元、龍重)、喜平次(龍之、龍定)、利堯(利堯、玄蕃助)、長龍(利興、利治)、日饒(妙覚寺19世住職)、日覚(常在寺6世住職)。また、長井道利 は長井利隆(『美濃明細記』)の子で道三の弟(『武家事紀』)とも、または道三が若い頃の子であるともされる。娘に姉小路頼綱正室、帰蝶(濃姫、織田信長正室)など。・・・
 長良川の戦いで戦死する直前、信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を末子である斎藤利治が信長に渡したとしており、京都の妙覚寺、大阪城天守閣に書状が存在するほか、江濃記にも記録されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%81%93%E4%B8%89
 「常在寺住職は斎藤道三の遺児である日饒が継いで5世となった。日饒は後に妙覚寺19世住職となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%81%8B

 しかし、<1542>年には守護頼芸を大桑(おおが)城から尾張へ追放し、美濃一国の大名に成長した。
 斎藤家の家臣団は、ほとんど守護土岐氏と守護代斎藤氏の旧臣だが、利政(道三)・義竜・竜興の偏諱を受けた武将があまり見あたらない。
 独立性の強い在地領主(西美濃十八将など)と宿老衆が家中を主導し、道三との間では常に綱引きがあったようだ。
 闘争を続けていた尾張織田家と結んだ道三の独自路線にたいし、若き当主のもとで合議政治を推進しようとしたのかもしれない。・・・」(55、57)

⇒「日蓮宗の本山<である>・・・妙覚寺は美濃国の戦国大名・斎藤道三との関係が深く、父とされる松波庄五郎は妙覚寺で得度しており(のち還俗)、また道三の四男は十九世の日饒である。日饒は織田信長にとっては義弟にあたり、信長は二十数回に及ぶ京への滞在において妙覚寺を宿所としたケースは18回に及び、本能寺に滞在したのは3回に過ぎない<が、>1582年・・・の本能寺の変の際、織田信長の嫡男織田信忠は妙覚寺を宿舎としていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E8%A6%9A%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)
ということから、信長の日蓮宗との関係は、(正室の桔梗が日蓮宗信徒であったと思われる上、事実上、道三から後継者に指名されたこともあり、)頗るつきに深いものがあったわけです。(太田)

(続く)