太田述正コラム#11928(2021.3.30)
<播田安弘『日本史サイエンス』を読む(その2)>(2021.6.22公開)

⇒日本の騎馬武者が騎乗していた馬は、結構、スグレモノだった、ということですね。(太田)

 日本馬の問題は、・・・去勢していない雄馬だったため、・・・西欧のような整然とした騎馬隊の隊列は組めなかったとしても、日本の武士は日常的に訓練して、雄馬を馴らしていました。
 戦場での突撃はせいぜい200m程度の走行であり、集団的な突撃は十分に可能だったと考えられます。
 こうしてみると、通説と比べて、<私の計算では、文永の役の時の>蒙古軍の実際の兵力<は>4万ではなく2万6000ほどと考えられるうえ、その実態は蒙古自慢の騎馬軍団ではなく寄せ集めの歩兵集団だった一方で、日本側は・・・騎馬兵が約5000騎、歩兵郎党が約5000人、ほかに物資や食料の補給などにあたる兵站郎党が約5000人と仮定し、戦う兵士としては合計約1万人で<あっ>・・・たと想定することにします。・・・
 <つまり、>襲来してきた蒙古は日本にとって、決して圧倒的に強大な敵ではなかったのです。
 しかも、蒙古側はさらなるハンディを背負っていました。・・・
 <私の計算では、>蒙古軍船は、長期間乗船の船酔い基準である上下加速度0.02g以下、横揺れ角度2度以下をいずれも超えてい<たはずで>す。
 したがって、蒙古軍船は航海中、凪のときを除けば明らかに船酔い発生領域にあったことがわかります。・・・
 そのため兵士たちは体力を奪われ、博多上陸時には、控えめに見積もっても総兵員の3分の1ほどは、満足に戦うことができなかった可能性があります。
 その意味で対馬海峡と玄界灘は、やはり蒙古軍にとって難関だったのです。・・・
 <ところで、>蒙古軍船はどこに上陸したのでしょうか。・・・
 歴史家の研究や文献には、蒙古軍船は<博多湾の南岸の東端近くの>息の浜沖(現在の東公園沖)に停泊し、そこから上陸したとしているものが少なからずあります。
 しかし、筆者が検証したところ、それではその後の戦いと、地理的にも時間的にもどうしても整合しないのです。・・・
 その答えは、じつは博多湾の各地の<当時の>水深を考えれば、おのずと明らかになるのです。・・・
 停泊する際には、慎重に水深を測り、投錨可能な見通し点を決めて投錨します。
 その間にも、潮の満ち引きで流れは変わりますし、風によっても船は振り回されます。
 大型軍船を投錨すると錨や索が絡むので、広い海面も必要です。・・・
 <そうすると、>蒙古艦隊の主力は、博多湾の西側、水深の深い今津を経て侵入し、おもに<博多湾の南岸の中頃の>百道浜の沖に投錨したと考えられます。・・・
 <その上で、>上陸艇が兵士全員を上陸させるには何往復が必要か計算してみたところ、・・・約1時間X10=約10時間かかることになります。・・・
 <ちなみに、>軍船1隻当たり5頭<載せられていた>軍馬<についても、同じく>・・・すべて降ろすには・・・10時間かかります。・・・
 結論として、蒙古軍が百道浜に全軍を上陸させるには、・・・約10時間かかりそうであることがわかりました。・・・
 上陸開始は旧暦10月20日の午前6時ですから、・・・蒙古軍はこの日のうちに全軍を上陸、進軍させることはできなかったと考えられます。・・・
 少なくとも、従来の通説のように、蒙古軍は早朝に侵入するや全員が上陸し、すぐさま武士たちと戦って集団戦で<武士たちを>殲滅した、というストーリーがいかに非現実的であるかはおわかりいただけるのではないでしょうか。」(42~43、49、51、62、70~)

⇒ここまで、私は、もっともらしいと思いました。
 播田は、息の浜上陸説を採る専門家の著作として、福岡県に司令部を置いていた陸上自衛隊第4管区の総監(後で言う第4師団長)の竹下正彦陸将・・竹下の肩書についての記述は混乱しており、播田の「専門」以外の記述は信頼性はないと思った方がよさそうです・・が総監在任中の1964年に執筆した『元寇–本土防衛戦史』(陸上自衛隊福岡修親会)を引き合いに出していますが、陸士卒の竹下陸将が、戦前の帝国海軍との間の悪しき「伝統」を引きずっていて、執筆にあたって、すぐそばの長崎県の佐世保にいた海上自衛隊の幹部の協力を得なかったことが、残念な「間違い」をもたらしたのでしょうね。
 また、その後は、陸海空要員が一緒に教育を受ける防衛大の卒業者達が、自衛隊の幹部の大部分を占めるようになったわけですが、折角、最も多感な時期に寮生活を共にした間柄だというのに、卒業後、意識の上でお互いに無縁になってしまい、播田がこのような批判を書くまで、海上自衛隊の幹部になった者が、誰一人ヨソの自衛隊であるところの陸上自衛隊の旧幹部が書いたものなど読もうとしなかったか、素っ頓狂な者がいて読むには読んだけれど播田のような問題意識を持つに至るほど才覚のある者がいなかったのか、仮にいたとしてもヨソの自衛隊の者が書いたものに文句をつけるのが憚られたのか、はたまた、実は文句をつけた者がいたのだけれどそれを播田が見逃したのか、そのいずれかである、ということになりそうです。(太田)

(続く)