太田述正コラム#11940(2021.4.5)
<播田安弘『日本史サイエンス』を読む(その8)>(2021.6.28公開)

 「・・・「光秀が信長に叛いて殺した」という情報が絶対に正しいという確信が<、果して秀吉にはあったのでしょうか。>・・・
 少なくとも、道を間違えた使者の一片の密書だけでただちに行動を起こすなどということは、ありえないと思われます。・・・
 秀吉は常時、京都からの情報が入るような隠密のルートとして、山陽道と、もう一本、京都から丹波・但馬国境の夜久野、但馬の和田山を経て生野街道を通り姫路に至る街道を整備していたとの研究もあり、これらを通じてもたらされた情報であった可能性はあります。・・・
 何か重大事が発生したときは、信頼できる報告がすぐに入るようなしくみが、あらかじめつくられてはいたのでしょう。
 ただ、6月2日の早朝に京都・本能寺で変が起こったことをいちはやく察知して、信長や織田家当主の信忠が落命し、謀反人が光秀であることが絶対に間違いないと確認したうえで、翌3日の夜までに備中高松の秀吉に知らせるのは、相当な難事であることはたしかです。
 戦国武将が諜報活動のために用いていたとされる、いわゆる「忍者」なら可能なのでしょうか。
 いずれにしても、それ相応の備えをしておかなければ、このような速さで変の情報を得ることはできなかったと思われます。」(145~147)

⇒秀吉が、いつ、どのように、光秀による信長(と信忠)死の確報、を入手したのかについては、(典拠が付いていませんが、)下掲が詳しいですね。↓
 「密使捕縛については、日本史研究者の藤田達生が、石井山の秀吉本陣と日差山の小早川隆景本陣とのあいだが直線距離でおよそ5キロメートル離れていることから、密使が敵陣に迷い込むというミスを犯す蓋然性は著しく低く、おそらくフィクションであろうとしている。それに対し、作家の井沢元彦は、光秀もその使者も、高松城が水中に完全に孤立して容易に近寄れない状態となっていたことは充分に予想できなかったと思われるいっぽう、秀吉は船での航行も含め、その通交を面的に厳戒していたはずであるから、密使がその警戒網に引っかかることは充分にありえたとして、事実であった可能性もあるとしている・・・
 京の動向を知らせるよう依頼していた信長の側近で茶人の長谷川宗仁の使者から知りえたともいわれている。」
http://yamatetsu1441.livedoor.blog/archives/19136591.html
 まず、密使については、秀吉に捕まったのが、藤田伝八郎である、とするのが、これも典拠が付いていませんが、下掲です。↓
 「備中高松で秀吉と対峙している毛利氏へは、光秀旗下でも健脚で知られる藤田伝八郎光政を密使として送った。
 もう一人、尼子氏の牢人原平内をして輝元の家臣杉原盛重へ知らせたが、この使者は途中手間取り届いたころは高松城は落城していたという。
 藤田伝八郎は3日の午後十時ころ、秀吉軍に捕らえられてしまったのである。
 主君信長の死を知った秀吉は、これを秘して毛利方と和睦をはかり一転して姫路へ取って返した。」
http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page065.html
 それに対し、原平内である、とするのが下掲です。↓
 「原平内なる者が秀吉の軍の中に毛利軍と間違え飛び込んできた際、彼が体に隠していた手紙から信長の死の情報を入手した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 前掲
 また、長谷川宗仁の話について、より詳しく出ているのが下掲です。↓
 「本能寺の変で信長が横死すると、宗仁は即座に備中に布陣していた羽柴秀吉に飛脚を送り、信長の死を報じた・・・『太閤記』・『黒田家譜』など」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%AE%97%E4%BB%81
 しかし、私は、以上、登場した3つの可能性は、いずれも追究する意味はないと思います。
 いずれも、播田の表現を借りれば、得られた情報が「絶対に間違いないと確認」できるはずがないからです。
 本能寺の変の時の明智方の武将は、明智家の重臣ばかりであって、彼らはいずれも山崎の戦い後に死亡しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 前掲 等
彼らの中に秀吉内通者はいなかったと思われるところ、これら重臣のしかるべき部下達のうちの誰かが秀吉のスパイであって、かねてから、秀吉に光秀の動静を伝えていて、本能寺の変で、信長と信忠がほぼ間違いなく死んだ、との情報を、かねてより用いてきていた手段とルートでもって秀吉に急いで届けさせた、と、私は想像しています。(太田)

(続く)