太田述正コラム#11944(2021.4.7)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その30)>(2021.6.30公開)

⇒島津忠良は形式的には藩主ではなかったのですから、キリスト教、日蓮宗、真宗の「禁令を発」する権限などなかったわけで、単に、彼の1568年の死までの最晩年に、「魔のしよいか天眼おがみ法華しう一向しうにすきのこさしき」と詠じ、キリスト教・日蓮宗・真宗に対して嫌悪感をあらわにし」た、
http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E7%A0%94%E7%A9%B6/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E7%A0%94%E7%A9%B6%EF%BC%92%EF%BC%98%E5%8F%B7/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E7%A0%94%E7%A9%B6%EF%BC%92%EF%BC%98%E5%8F%B7%E3%80%80002%E6%98%9F%E9%87%8E%E5%85%83%E8%B2%9E%E3%80%8C%E8%96%A9%E6%91%A9%E8%97%A9%E3%81%AE%E5%B0%81%E5%BB%BA%E6%94%AF%E9%85%8D%E3%81%A8%E7%9C%9F%E5%AE%97%E7%A6%81%E5%88%B6%E8%A3%BD%E4%BD%9C%E2%80%95%E2%80%95%E7%96%91%E5%BF%83%E6%9A%97%E9%AC%BC%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E9%86%B8%E6%88%90%E2%80%95%E2%80%95%E3%80%8D.pdf
という程度のことでしょう。
 しかし、この忠良の意向がその後の薩摩藩に大きな影響を及ぼした(上掲)ところ、私は、このうちの反キリスト教部分は、地方においてとはいえ、日本で最も早い時期における事挙げであったことに注目しており、それと、ほぼ同じ時期に、日本の中央で出された、京都から宣教師(バテレン)を追放するという趣旨のキリスト教禁教令であるところの、正親町天皇による、1565年と1569年におけるものそれぞれ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E6%95%99%E4%BB%A4
との関連性が気になっています。
 当時、関白の近衛前久は在京中であり、日蓮宗、真宗とは良好な関係にあった前久
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85
が、近衛家と「一心同体」であったところの、島津氏、の事実上の当主であった忠良と調整の上、キリスト教に関してのみ、正親町天皇に働きかけ、禁教令を発出してもらった、と、私は想像している次第です。(太田)

 「このように、戦国大名による一向宗禁令は少なくない。
 ・・・1532<年>、細川晴元に与した本願寺門主証如(しょうにょ)が二万の門徒を軍事動員して河内高島城の畠山義堯<(よしたか)>を討ち、堺で三好元長を自刃に追い込んだ。・・・
 一向一揆に脅威を感じた晴元は一転、六角定頼・木沢長政、日蓮宗と結び、・・・総本山の山科本願寺を攻囲し、焼き討ちした。
 宗主証如は、蓮如が開いた大坂御坊へ本願寺を移し、細川晴元と和睦した。・・・
 越前朝倉氏・能登畠山氏・越後長尾氏・出羽庄内武藤氏・小田原北条氏・常陸佐竹氏・肥後相良氏・薩摩島津氏、三河一向一揆を鎮圧した家康など、分国内で一向宗を禁圧した時期があった。
 その一方で、毛利氏のように一向宗を保護して、瀬戸内における本願寺安芸門徒らの海上輸送力を利用した大名もいる。・・・
 中世は宗論(宗旨の優劣を論争し勝敗を決すること)の時代だ。
 とくに、法華宗による他宗への宗論は激しかった。・・・
 宗論を停止する戦国大名<も>いた。
 ・・・1526<年>制定の『今川仮名目録』第28条では、分国中における「諸宗の論」を停止した。
 また、信玄の『甲州法度之次第』第22条では、浄土宗と日蓮宗との宗派名を挙げて武田分国内での「法論」(宗論)を禁止した。・・・
 分国内における宗論停止令は、寺社を庇護する国主が、・・・宗教上の自力<救済>を否定し、国内の諸宗派を統轄する権能を意味していた。
 たとえば、日蓮宗の宗論に関しては、・・・1575<年>法華宗徒の三好長治(ながはる)が浄土宗側を敗訴させた阿波勝瑞(しょうずい)宗論や、<1579>年、信長が浄土宗側を勝たせるように仕組んだ近江の安土宗論が有名だ。
 信長の主眼は日蓮宗の宗論停止にあったようだから、今川氏や武田氏の宗教政策と共通していると見てよい。

⇒安土宗論は、信長が浄土宗側を勝たせるように仕組んだか否かもさることながら、信長が事実上日蓮宗信徒であった(コラム#省略)にもかかわらず、浄土宗側を勝たせていて、しかも、鍛代は記していませんが、負けた日蓮宗側に事実上ペナルティを課していないという、二重に「異常な」宗論でした。
 また、私は、信長の主眼が日蓮宗の宗論の停止にあったのではなく、日蓮宗の当時の教義の変更、すなわち折伏の否定、にあった、と、考えています。
 この辺りのことについては、更に敷衍して、次の東京オフ会「講演」原稿で記述するつもりです。(太田)

 なお北条氏においては、・・・1566<年>、朱印状をもって・・・一向宗徒による他宗への宗論を停止させ<ている。>」(212~214)

(続く)