太田述正コラム#11958(2021.4.14)
<福島克彦『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む(その3)>(2021.7.7公開)

 「1572<年>5月19日付<の>曽我助乗<(注8)>宛の光秀書状・・・で<は、>高島郡における戦闘活動を奉じたのち、猶々書(なおなおがき)(追伸)において京都を出ることを義昭に申し上げるべきであったと述懐して、義昭への執り成しを依頼している。

 (注8)そがすけのり(?~?年)。「代々室町幕府に仕える家に生まれ、自身も足利義晴・義輝父子に仕える。のち・・・1569年・・・足利義昭が織田信長の支援で入京するとこれに馳せ参じ、若狭国内に所領を与えられる。また信長からも山城・摂津・河内国内の水陸過書の認可を得た。・・・1573年・・・信長と対立した義昭の槇島城籠城に従い、義昭が若江城に落ちた時もこれに従った。後年、豊臣秀吉に仕えて所領を給付された。・・・上野介、兵庫頭<とも呼ばれる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E5%8A%A9%E4%B9%97

 したがって、<1572>年までの光秀は、織田方の軍事行動に服しながらも、基本的には義昭傘下であることを常に意識していた。・・・

⇒「<1571>年9月12日の比叡山焼き討ちで中心実行部隊として・・・武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)を与えられ、間もなく坂本城の築城にとりかかる。柴辻俊六<(注9)>は光秀と他の幕臣及び織田家家臣との文書の連署状況や、滋賀郡の拝領が信長に没収された延暦寺領の処理の一環として佐久間信盛らと同時に与えられていることから、<それまで>の光秀の身分は幕臣であったが、滋賀郡を与えられたのを機に織田家の家臣に編入されたとみる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80
ところ、この時、所領を与えたのが義昭ではなく信長であった以上、私も柴辻に同意です。

 (注9)1941年~。早大(教育)卒、同大修士(史学)早大図書館勤務経て、早大、法政大、國學院大、日大、において非常勤講師。早大博士(文学)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E8%BE%BB%E4%BF%8A%E5%85%AD

 翌年5月の曽我宛の光秀の書状は、かつて直属していた義昭に対して、かつての上司ないし先輩を通じて離京の事後挨拶をした以上のものではないでしょう。
 ちなみに、上野介は吉良義央の例に照らせば従四位下、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AE
兵庫頭は従五位上相当、
https://kotobank.jp/word/%E5%85%B5%E5%BA%AB%E3%81%AE%E9%A0%AD-2078537
であり、この書状を受け取った当時、既に従五位上であった可能性が高かったのに対し、光秀が従五位下日向守に任官するのは1575年7月です。
 なお、光秀には、義昭と信長の両方に仕えていた時期があるとする、戦後登場したいわゆる両属説が未だに通説であって、
https://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/6df5a897406ae90c76190a2be3feb942
福島もこの通説に拠っているわけですが、そんなことは、義昭も信長も光秀も武家であって、相互の軍事指揮命令系統が明確でなければ、戦争や戦闘などできるわけがない以上、ありえないと私は考えています。
 要するに、「義昭-●(0~1(但し、人が途中で変わった可能性あり))-光秀」⇒「義昭-信長-光秀」⇒「信長-光秀」、と、光秀の立場が変わって行った、というのが私の考えなのです。(太田)

 1575<年>・・・5月には薩摩より島津家久(のちの薩摩藩主とは別人)が阪本城を訪問している。
 家久は当主義久の弟で、京都愛宕社、さらに伊勢参詣のため上洛していた。
 彼は連歌師里村紹巴<(注10)>の紹介もあって、光秀の坂本の町と城へ向かい、坂本の宿に泊まりつつ、宿裏手から舟で坂本城<(注11)>内へ入っている。・・・

 (注10)さとむらじょうは(1525~1602年)。「奈良の生れ。・・・公家の三条西公条をはじめ、織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・三好長慶・細川幽斎・島津義久・最上義光など多数の武将とも交流を持ち、・・・1582年・・・、明智光秀が行った「愛宕百韻」に参加したことは有名である。本能寺の変後には豊臣秀吉に疑われるも難を逃れた。40歳のとき宗養の死で連歌界の第一人者となるが、・・・1595年・・・の豊臣秀次事件に連座して近江国園城寺(三井寺)の前に蟄居させられた。・・・
 近衛稙家に古今伝授をうけた。門弟には松永貞徳などがいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E6%9D%91%E7%B4%B9%E5%B7%B4
 (注11)「1571年・・・9月比叡山焼き討ちの後、宇佐山城の城主であった光秀に対して信長は滋賀郡の支配を命じ坂本城を築城させた。比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得が目的であったと思われる。・・・<その後、1576年から築城が始まった>安土城につぐ天下第二の城と評されるほどのものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%9F%8E

 翌日も城内を見学し、「城のたくハへ(蓄え)、其々(それぞれ)の倉、薪など迄積置(つみおき)候事、言の葉におよハす」と驚いている・・・。」(44)

⇒福島とは違って、私は、島津義久が、伊勢神社等の参詣を名目にして、坂本城の偵察のために、薩摩から家久をわざわざ派遣した、と、見ています。
 それは、当然、近衛家とも示し合わせて行われたことでしょう。(太田)

(続く)