太田述正コラム#11960(2021.4.15)
<福島克彦『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む(その4)>(2021.7.8公開)

 「<1578年>10月21日、突然荒木村重<(注12)>が「逆心」を企てた・・・。

 (注12)1535~1586年。「荒木氏は波多野氏の一族とされ・・・る。・・・<村重は、>利休十哲の1人である。・・・
 <信長に対する>謀反の理由・・・
・将来に希望が持てなくなったからという説。石山合戦では先鋒を務め、播磨国衆との繋がりもあったが、本願寺攻めの指揮官が佐久間信盛になり、播磨方面軍も羽柴秀吉が司令官に就任したことから活躍の場がなくなったからといわれる。
・摂津国内では信長勢力の進出まで国衆や寺内町・郷村などが比較的独自の支配体制を築いてきたが、信長はこうした勢力を統制下に置こうとしたために織田政権への反発が強まり、その矛先が村重に向けられつつあった。村重は国衆や百姓からの突き上げに追い込まれた結果、却って信長に叛旗を翻して彼らの支持を受けた方が摂津支配を保てると判断したとする説。実際、村重の反逆の直後にこれまで石山本願寺の目の前にありながら石山合戦に中立的であった摂津西部の一向一揆が蜂起し、尼崎城や花隈城の戦いではむしろ彼ら百姓主導による抵抗が行われて、信長軍も西宮から須磨の村々を焼き討ちにして兵庫津では僧俗男女の区別なく皆殺しにしたと伝えられている。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%87%8D

 村重はもともと摂津国池田氏の家臣であったが、同国における国衆の抗争に勝ち抜き、信長の信任を得て摂津国の一職(いっしき)(総括的な支配権)を任された武将である。
 茶道にも造詣が深い文化人であるとともに、野心家でもあり下剋上を体現した人物でもあった。
 実はすでに10月17日に本願寺顕如が村重に誓紙(起請文)を出しており・・・、本願寺は村重を見放さないと述べ、彼の新知行については毛利方に庇護されている「公儀」(足利義昭)に従うよう伝えている。
 こうして村重は反信長戦線に加わる覚悟を決めていた。
 今まで信長の命で自らが攻めていた大阪本願寺と同盟を交わし、本願寺および中国地方の雄毛利氏、足利義昭と結ぶ道を選択したのである。
 ・・・丹波の波多野秀治<(注13)>、播磨三木の別所長治<(注14)>も信長方に反旗を翻していた。

 (注13)1538?~1579年。「播磨国の別所長治を娘婿として同盟を結んでいる。・・・1568年・・・、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、波多野氏は織田氏に従った。・・・1575年・・・10月、信長が明智光秀の軍勢を派遣してくるとそれに味方したが、・・・1576年・・・1月に叛旗を翻し、光秀の軍勢を攻撃して撃退した(黒井城の戦い)。・・・1578年・・・3月、光秀は再び丹波に出陣すると秀治の籠る八上城を包囲し、兵糧攻めを開始する。・・・<やがて>兵糧も尽き、・・・1579年・・・6月1日、調略(味方の裏切り)によって秀治ら波多野兄弟は捕らえられた。その後、弟二人とともに安土に送られ、・・・磔に処された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E7%A7%80%E6%B2%BB
 「波多野氏<は、>・・・石見の豪族・吉見氏の庶流」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E6%B0%8F
 (注14)1558?~1580年。「別所氏は早くから織田信長に従っており、家督を相続した長治も・・・1575年・・・10月に信長に謁見、翌年も年頭の挨拶に訪れている。・・・1577年・・・に信長が紀州征伐へ出陣すると、長治もこれに加勢した。しかし、信長が中国地方の毛利氏を制圧しようとすると、それに呼応して先鋒の役を務めようとしたが、織田勢による上月城の虐殺、中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉であることに不満を感じ、妻の実家である丹波国の波多野秀治と呼応して信長に反逆した。多くの周辺勢力が同調、従わなかった勢力も攻め、東播磨一帯が反織田となる。
 これにより長治は、信長の命を受けた秀吉の軍勢に攻められることとなる。長治は三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせ、さらに荒木村重の謀反や毛利氏の援軍などの好条件も続いて、一度は織田軍を撃退し、秀吉方に属した冷泉為純親子らを討つなど攻勢にもでたものの、やがて秀吉の「三木の干し殺し」戦法に遭い、神吉城や志方城などの支城も落とされ、毛利氏からの援軍も途絶えて、遂に籠城してから2年後の・・・1580年・・・、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E6%89%80%E9%95%B7%E6%B2%BB
 「別所氏<は、>・・・播磨の守護大名・赤松氏の庶流であり、三木城を本拠とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E6%89%80%E6%B0%8F

 今回の村重の蜂起によって、こうした反信長戦線のさらなる拡大が懸念された。
 11月3日に信長が上洛したのち、秀吉、光秀、松井友閑らが村重のもとへ派遣されたが、もうこの段階では彼の意思は後戻りできない段階にまで固まっていたのである。」(95~97)

⇒「注12」で紹介したところの、村重の謀反理由は、私が、7つ掲げられていたもののうち、最も説得力がありそうだと思った2つなのですが、福島の説・・福島だけの説かどうかは知りません・・の方が、より説得力がありますね。
 さて、私は、波多野/荒木と別所同様、光秀も、信長の日本統一事業の目的・意義が分かっておらず、当時、既に叛意を抱いていたけれど謀反に踏み切れなかっただけだ、と見ており、波多野/荒木と別所の謀反の失敗を糧として、周到に機会を伺い、後の本能寺の変でついに信長を討つことに成功した、と考えています。
 これに対し、秀吉は、早期から信長のこの事業の目的・意義が分かっており、かつまた、実は光秀もまた、波多野らと同様、叛意を抱いているのではないか、と、この頃までには疑うに至っていた、とも、私は見ています。(太田)

(続く)