太田述正コラム#11978(2021.4.24)
<福島克彦『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む(その13)>(2021.7.17公開)

 「・・・1581<年>の鳥取城攻め段階から、・・・毛利氏との戦い<への>・・・信長の出馬が予定されており、秀吉もたびたびこれを吹聴していた。
 信長も、自らの出陣の意思を明確にするため、まず堀秀政<(注37)>を秀吉のもとへ遣わした。

 (注37)1553~1590年。「藤原北家利仁流斎藤氏族堀氏<。>・・・斎藤道三の家臣である堀秀重の長男<。>・・・織田信長の小姓・側近として取り立てられた<。>・・・本能寺の変の直前には、明智光秀が徳川家康の接待役を外されたあと、丹羽長秀と共にこれを務めており、この接待を終えた後、備中の秀吉の下へ向かっている。・・・1582年・・・6月2日に本能寺の変が起こって信長が死去した時、秀政は秀吉の軍監として備中国にいたが、信長死去の報を知ると秀吉と共に急ぎ上方へ戻って山崎の戦いに参陣し、中川清秀や高山右近らと先陣を務める。・・・
 1590年・・・の小田原征伐にも参陣<したが、>・・・疫病を患い、・・・陣中にて急死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%A7%80%E6%94%BF

 さらに秀吉への助勢として、光秀以下、細川忠興、池田恒興、高山右近、中川清秀らに出陣を命じた。
 この段階で、信長は光秀の家康に対する饗応役を解いている。
 これを受けて、17日中に光秀は居城坂本城へ戻った。
 5月19日、信長は家康とともに安土城惣見寺(そうけんじ)で、・・・舞、・・・能を見物した。
 その後、家康は信長から「京都・大坂・奈良・堺、御心静かに御見物なされ」るべきとの勧めもあり、21日には京都へ入っている。
 信長は、大坂において津田信澄<(注38)>、丹羽長秀<(注39)>の両人に家康への饗応を指示している・・・。

 (注38)1555/1558~1582年。「織田信秀の三男・織田信勝(信行)の嫡男として生まれる。・・・織田信長の甥にあたり、その嫡男である従兄弟の織田信忠とはほぼ同年代であったと考えられる。・・・1557年・・・に父・信勝は謀反の企てを起こしたとして、(信勝の兄・)信長によって暗殺されるが、子供達は助命され、信長の命令により柴田勝家の許で養育された。・・・
 1578年<頃から、>・・・津田あるいは織田姓を名乗っており、他の連枝衆と同じく、信長の側近としての務めと、信忠配下の遊撃軍団の一員としての両方の活動を行った。・・・
 <その後、>信長は明智光秀の娘と信澄とを結婚させている。・・・
 1582年・・・5月・・・11日、信澄は住吉で四国に渡海する準備に入った。また、21日に安土の信長は、京都から堺に向かうという徳川家康の大坂での接待役を丹羽長秀と信澄に命じている。
 6月2日、舅の光秀が京都の本能寺、妙覚寺にいた信長、信忠を襲撃した本能寺の変が起こった。四国遠征軍は翌3日が淡路渡海の予定であったが、急遽中止される。信澄が光秀の娘婿であった事が災いし、市中には謀反は信澄と光秀の共謀であるという事実とは異なる噂が流れており、疑心暗鬼に囚われた信孝と長秀は、5日、信澄を襲撃して大坂城千貫櫓を攻撃した。信澄は防戦したが、・・・討ち取られた。・・・
 一門衆の序列は第5位であり、信長の嫡子である信忠、信雄、信長の弟の信包、信長の庶子の信孝に次ぐ立場で、信澄の後ろに続くのは信長の弟の長益(有楽斎)、長利であって、破格の待遇であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E4%BF%A1%E6%BE%84
 (注39)1535~1585年。「丹羽氏は元々斯波氏の家臣であったが、長秀は・・・1550年・・・から織田信長に仕えた。・・・
 家老の席順としては、筆頭格の佐久間信盛失脚後この位置に繰り上がった柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、両名は織田家の双璧といわれた。・・・
 長秀は信長の養女(信長の兄・織田信広の娘で姪)桂峯院を妻に迎え、嫡男の長重も信長の五女を娶っている。さらに、長秀は信長から「長」の字の偏諱を受け、親しい主従関係であった。2代に渡って信長の姻戚となった例は、他の家臣には一切無いところを見てもわかるように、長秀は信長から「長秀は友であり、兄弟である」と呼ばれるという逸話が残るほど、厚く信頼されていたことがうかがえる。・・・
 <本能寺の>変に際して大坂で四国出陣の準備中だった長秀と信孝は、光秀を討つには最も有利な位置にいたが、信孝と共に岸和田で蜂屋頼隆の接待を受けており、住吉に駐軍していた四国派遣軍とは別行動をとっていた。このため、大将不在の時に本能寺の変の報せが届いたことで四国派遣軍は混乱のうちに四散し、信孝・長秀の動員できる兵力が激減したため、大規模な軍事行動に移ることができなかった。長秀と信孝はやむをえず守りを固めて羽柴軍の到着を待つ形となり、山崎の戦いにおける名目上の大将こそ信孝としたものの、もはやその後の局面は秀吉の主導にまかせるほか無かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E9%95%B7%E7%A7%80

 このとき、家康と行動を共にしていた信長の嫡男信忠は、大坂・堺へ同行する予定であったようである。
 しかし5月27日付の森蘭丸宛書状・・・では、信長による中国攻めが正式に決定したので「堺見物之儀」は遠慮し、一両日中に信長が到着するので、京都で待つ旨を伝えている。
 猶々書(追伸)には家康が28日に大坂・堺へ罷り下ると記している。
 この段階で、信長とその後継者たる信忠という二人がわずかな手勢で在京することが明確となった。

⇒どうして、信長が、家康が帰国して信澄や長秀が自分に近侍している状態で光秀を出馬させることができる時点まで、自分自身(や光秀)の出馬を待てなかったのか、不思議です。
 そもそも、本能寺の変の後、秀吉は、「制海権を失い、持久戦の準備をしている織田軍に対して力攻めをする兵力がなく、持久戦に耐える物資輸送手段に窮した毛利氏には講和をするしかなかった<ところ、籠城していた>・・・清水宗治<を>・・・自害<させた上で、>・・・中国大返し<を挙行しており、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99%E4%B8%AD%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
信長が急いで出馬しなければならない状況では全くなかったからです。
 結局のところ、信長は、秀吉の言に無条件に従うほど秀吉を重視し、かつ、光秀の自分への忠実さを無条件に信じていた、ために、本能寺で不慮の死を遂げさせられることになった、というわけです。(太田)

 なお、この書状は、光秀のもとで活躍し、明智名字も授与された丹波国衆小畠永明の実家の『小畠文書』において伝えられてきた。・・・
 なぜ小畠氏の家に残っていたか気になるところである。
 一方、光秀は、5月26日、「中国へ出陣として」坂本城を出立し、「丹波亀山の居城」に到着した・・・。・・・」(180~181)

⇒光秀は、畿内には諜報網を張り巡らしていて、信忠の森蘭丸宛書状を入手したと想像される小畠家の郎党も、恐らく光秀の諜報員だったのでしょうが、本能寺の変の後、光秀が、「変後の京の治安維持に当たった後、・・・軍を近江に派遣し、京以東の地盤固めを急いだ。これは光秀の居城である坂本城や織田家の本拠地であった安土城の周辺を押さえると共に、当時の織田家中で最大の力を持っていた柴田勝家への備えを最優先したためと考えられる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ということからも、彼が、京に最も近い場所にいたところの、信孝、長秀の四国征伐軍に全く警戒心を抱く必要がないことを、(恐らく本能寺の変の前から、)諜報活動を通じて読み切っていたからだと思われます。
 そんな光秀の上前をはねる諜報力を発揮したのが、光秀が、同様さほど警戒心を抱いていなかったところの、「遠方」の秀吉、だったわけです。(太田)

(続く)