太田述正コラム#11982(2021.4.26)
<福島克彦『明智光秀–織田政権の司令塔』を読む(その15)>(2021.7.19公開)

 「・・・<本能寺の変後、>光秀はほぼ近江国を手中に収めた。
 6月5日、興福寺釈迦院からは巻数(かんじき)(武運長久など祈禱を記した文書)と500疋<(注44)>(ぴき)が光秀に届けられた。

 (注44)「(1)織物の長さを表す単位。反物2反分の長さを1疋という。並幅(約36cm)で,長さは22m前後。1疋でおとな用の着物と羽織を対(つい)にして仕立てることが多い。(2)銭を数える呼称。1疋=10文,のち25文となる。」
https://kotobank.jp/word/%E7%96%8B-863046

⇒「興福寺釈迦院」の調べがつきませんでしたし、「疋」をこの場合二択のうちどちらと解すべきかも分かりませんでした。(太田)

 このときは使者たる藤田伝五と松田太郎にも100疋ずつ遣わされたという・・・。
 この間、朝廷においても光秀に応じる動向が見られた。
 武家伝奏の勧修寺晴豊<(注45)>を介して誠仁親王・・・の勅使を命じられた吉田兼見は、6月7日に安土城へ到着し・・・光秀に対面した。・・・

 (注45)「誠仁親王妃で後陽成天皇国母となった勧修寺晴子(新上東門院)<は>・・・妹・・・。・・・<なお、>山崎の戦い後には、明智光秀の女子の一人を保護している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A7%E4%BF%AE%E5%AF%BA%E6%99%B4%E8%B1%8A 前掲

⇒藤原氏の寺院である興福寺からの届け物、と、勅使の派遣、は、どちらも、時の藤氏長者にして関白であったところの、一条内基の差し金でしょう。
 しかも、正親町天皇との連名ではなく、事実上の共同天皇ではあったとはいえ、誠仁(さねひと)親王・・本能寺の変の際に光秀に命を「助けられた」・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A0%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
だけの勅使を、誠仁親王妃を妹とする勧修寺晴豊を介して派遣するとは、いかにも、武家へのゴマスリを身上とする一条家の当主らしい、機敏かつ目配りの利いた動きですね。(太田)

 こうしたなか蒲生賢秀<(注46)>のみは、明智方に出頭せず、抵抗の意思を示した。

 (注46)がもうかたひで(1534~1584年)。「六角氏の重臣・・・の長男として誕生。・・・1568年・・・、義賢と織田信長<との間の>観音寺城の戦いでは、賢秀は柴田勝家と蜂屋頼隆等に攻められるが、これを堅守した。しかし、義賢は信長に敗北し、六角家は滅亡する。賢秀は敗北を聞いてもなお1千の兵で日野城に籠もり、抵抗する様子を見せていた。しかし、賢秀の妹を妻としていた織田家の部将・神戸具盛が単身日野城に乗り込んで説得した結果、賢秀は降伏し、賢秀は嫡男・鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として差し出して信長の家臣となり、柴田勝家の与力となる。信長は賢秀・鶴千代父子を気に入り、鶴千代に娘の相応院を嫁がせて娘婿に迎えている。後に信長包囲網が敷かれると六角氏から誘われたこともあったが、断固断って織田家の部将として戦い、・・・1573年・・・4月には旧主・六角義治を鯰江城に攻めている。・・・
 柴田勝家の北陸移封後は近江に残り独立した軍団を形成。・・・1582年・・・、本能寺の変の際、安土城二の丸を守備しており、信長横死の報がもたらされると、・・・6月3日卯刻に安土城から信長の御台君達を日野城に避難させて、立て籠もった。・・・明智光秀からは・・・味方に付けば近江半国を遣わすとの破格の条件を提示してきたが、賢秀は信長の恩を忘れることはできないと敢然と拒絶したという。・・・
 神戸具盛、関盛信の妻はいずれも賢秀の姉妹にあたる人物であり、その縁から両者が織田信長によって追放された際は、身柄を預かっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E8%B3%A2%E7%A7%80

 ・・・蒲生賢秀と・・・信長の娘婿<である>・・・子息賦秀(ますひで)(のちの氏郷(うじさと))は、信長の妻妾を連れて、自らの拠点、日野<の>・・・中野城・・・に在城していた・・・。
 前近代の日野は、約80もの「町」地名と長方形街区が東西に配置された近江東部最大の都市集落であった。・・・
 ここで興味深いのは、<この>中野城の東側の600メートルの位置に、大坂本願寺とも昵懇の真宗寺院興敬寺が立地している点である。・・・
 今回・・・は、蒲生賢秀は真宗勢力に「一揆を催」し、光秀に抵抗するよう促していた。
 さらに本願寺からの後援も期待していた・・・。
 賢秀らは、遅くとも6月4日には三河に戻る途上の徳川家康と音信を交わしつつあった・・・。
 さらに、隣接する伊賀国から近江に出てきた織田信雄も近江土山(つちやま)(滋賀県甲賀市)に着陣し、蒲生氏との合流を模索していたようである。・・・
 しかし、光秀は、こうした反明智の姿勢で活発に連絡を取り合っていた蒲生氏を討伐しようとする動きは見せていない。
 大事の前の小事として捉え、これをあえて黙認している。
 6月8日、光秀は安土城を明智秀満に任せ、摂津・・<その地>で四国攻めを進めていた織田信孝、丹羽長秀の動向が気になっていたのであろう・・へ手勢を派遣するため京都に向かった(『兼見卿記』別本<(注47)>)。・・・」(197~199)

 (注47)「兼見卿記<は、吉田>兼見が記した日記で、特に京の政治情勢に関して詳しく記されており、他にも北野社の大茶会をはじめとする茶器・連歌などの文芸、天正大地震による若狭湾での大津波の記録など、織豊政権期の重要な資料の一つとされている。本能寺の変の起こった天正10年分だけ、以前の記述分が別本として存在しており、光秀との関わりのある件が書き直され・・・ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%85%BC%E8%A6%8B

⇒光秀の死去後に書き直された日記内の光秀の意図に係る部分の信憑性は低いと見るべきですが、いずれにせよ、私は、天皇家と公家達に睨みを効かせつつ、勝家の動向と信孝/長秀の動向を両にらみするためには、自分は京都にいるべきだ、と、光秀は判断した、ということだと思います。(太田)

(続く)