太田述正コラム#11990(2021.4.30)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その1)>(2021.7.23公開)

1 始めに

 今度は、表記のさわりをご紹介し、私のコメントを付します。
 『日本史サイエンス』のシリーズも完結していないところ、今回も、少なくとも家康を対象とする最終部分が始まるまでで中断するつもりで今のところいます。
 但し、前者については、再開させないかもしれないけれど、後者については、中断した場合でも必ず再開させます。
 ちなみに、藤井譲治(1947年~)は、京大文卒、同大博士課程修了、同大助手、神戸大助教授、京大助教授、同大博士(文学)、同大教授、石川県立歴史博物館館長、日本近世史専攻、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E4%BA%95%E8%AD%B2%E6%B2%BB
という人物です。

2 藤井譲治『天皇と天下人』を読む

 「・・・1549<年>、鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルは、布教の許可を求めて京都に来るが、天皇に会うこともできず、後事をトルレスに託し、京都を去った。
 トルレスは京都での布教許可を求め比叡山と交渉を進めるが、うまくいかなかった。
 しかし、<1560>年にガスパル・ヴィレラが将軍足利義輝に謁見し、布教の許可を獲得した。
 さらに当時、京都を抑えていた三好長慶からも布教の許可を得、京都での布教が開始された。
 <1563>年、比叡山は、三好長慶の家臣である松永久秀に、宣教師が神仏を廃そうとしていると訴え、宣教師の京都からの追放を要求したが、久秀はそれには応じなかった。
 翌<1564>年、三好長慶が没し、<1565>年、5月には将軍義輝も三好義継・松永久秀等に殺されたため、キリシタンはその庇護者を失った。
 こうした事態のなか、・・・<同年>7月5日、正親町天皇は、・・・この時、京都を掌握していた三好義継<(注1)>の申し出を受けて、・・・女房奉書をもって「大うすはらい」を命じた。

 (注1)1549~1573年。「三好長慶の実弟・十河一存<(かずまさ・かずなが)>の子として生まれる。・・・1563年・・・8月に従兄で長慶の世子であった三好義興が早世したため、<一存の子の重存が>長慶の養子として迎えられ三好姓に改めた。
 当時、長慶の後継者候補には他に次弟の安宅冬康やその子・信康、更に長弟・三好実休<(じつきゅう)>の3人の息子達がいた。長慶が三好姓で息子が3人いる実休からではなく、息子が1人しか居ない<故十河>一存<の子を>養子に迎えたため、十河家は実休の次男・存保を養子に迎えなければならなくなる。何故、このような不自然な養子相続関係を結んだ上で、重存が後継者に選ばれたのかは、九条家との関係が考えられる。九条家は足利義晴、足利義輝と2代に渡って室町幕府将軍の正室を出した近衛家と対立しており、これに対抗するため、九条稙通が一存に娘(あるいは養女)を嫁していた。こうした九条家と三好一族の近い関係が、重存を後継者に押し上げたと考えられる。・・・
 1564年・・・7月に長慶が死去すると、重存は後見役の三好三人衆(三好長逸・三好政康(宗渭)・岩成友通)の支持を受けて家督を継ぎ、名実共に三好家の当主となる。・・・
 1565年・・・5月1日、重存は義輝から「義」の字を賜って義重と改名、義輝の奏請により左京大夫に任官された。・・・
 しかし、5月18日、三人衆や松永久通(久秀の息子)を伴い京都へ上洛、翌5月19日、突如二条御所を襲撃し義輝を殺害する。その後、キリスト教宣教師を京都から追放した(永禄の変)・・・
 この事件は久秀が主犯の殺害事件であるかのように後世には伝わっているが、久秀はこの時京都で義継らと共にはおらず大和国におり、義輝殺害に関与していない。軍勢を指揮していたのは義継や三好長逸と久通であり、このことから歴史学者の天野忠幸は義継を「義輝殺害事件の指揮者の一人」とみなしている。
 義輝殺害事件の直後、名前を義重から義継へと改名している。天野はこの改名を示唆的な改名と解釈しており、「三好本家の当主が、武家の秩序体系において最高位に君臨する足利家の通字である『義』の字を『継』ぐ、と表明した」と解説、義継は足利将軍家を必要としない政治体制を目指したと推論している。
 だが、三人衆と松永久秀は不仲になり、三人衆は三好家の旗頭として義継を擁立、・・・義継は三人衆と共に久秀と戦うことになる。戦況は三人衆側が終始有利で、やがて三人衆が本国阿波から義輝の従弟に当たる足利義栄を呼び寄せると、三人衆や篠原長房ら三好政権首脳陣は義栄を次の将軍にすべく尊重する一方で義継をないがしろにしていった。このため、・・・義継は・・・1567年・・・2月16日に・・・少数の被官を引き連れて三人衆のもとから逃れて高屋城から脱出、堺へ赴き久秀と手を結ぶ。
 義継との結託により三人衆と久秀の争いは若干久秀が有利になったが、戦況の膠着は継続し決着はつかなかった。義継は大和で筒井順慶と結んだ三人衆と交戦、10月10日の東大寺大仏殿の戦いで松永勢が勝利し、久秀の勢力が持ち直す契機となった。
 ・・・1568年・・・に織田信長が足利義昭(義輝の弟)を擁立して上洛してくる際、松永久秀、及び彼と手を組む義継は、信長の上洛に協力した。天野忠幸は、信長の上洛は久秀と義継が招いた結果であり、後の彼らの末路を考慮すればこの判断が間違いであったことは言うまでもないと指摘する。
 ・・・1569年・・・1月に阿波から畿内に上陸した三人衆が義昭を襲撃すると、畿内の信長派と合わせて三人衆を撃退(本圀寺の変)、3月に信長の仲介により義昭の妹を娶る。
 その後しばらくは信長の家臣として三人衆など畿内の反信長勢力と戦っていたが(野田城・福島城の戦い)、・・・1571年・・・頃から久秀と手を結んで信長に反逆し、信長包囲網の一角に加わった。・・・1572年・・・には織田方・・・と河内・摂津方面で戦い、勝利している。
 しかし・・・1573年・・・4月、信長最大の強敵であった武田信玄が病死すると織田軍の反攻が始まり、7月には義兄にあたる足利義昭が信長によって京都から追放され、室町幕府は<事実上>滅んだ。
 追放された義昭を若江において庇護したため信長の怒りを買い、<1573>年11月、信長の命を受けた佐久間信盛率いる織田軍に若江城を攻められ(義昭は直前に堺へ脱出)、・・・若江城は落城し、妻や子供(仙千代)と共に自害して果て・・・<た。>(若江城の戦い)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E7%BE%A9%E7%B6%99

 女房奉書は、天皇の命を側近くに仕える女官が奉じて伝えた仮名書きの文書である。
 「大うす」とは「デウス」が訛ったもので、キリスト教のことであり、この女房奉書によってキリシタン追放が命じられたのである。・・・
 <これは、>日本で最初に出されたキリシタン禁令である<ところ、>・・・その背景は殆ど知りえない<が、>・・・フロイスによれば、こ<れ>は、法華宗徒であり、将軍義輝の執奏によって公家に加えられていた竹内季治<(注2)>(たけのうちすえはる)兄弟が、同じ法華宗徒であった松永久秀を説得し、出させたものであるとしている。

 (注2)1518~1571年。「久我家諸大夫を務める一方で、・・・父の後を継いで大膳大夫に任ぜられ・・・1557年)従三位に叙せられ竹内家として初めて公卿に列す。・・・1560年・・・には将軍・足利義輝の執奏によりついに堂上家に加えられた。
 ・・・1562年・・・正三位に至る。・・・1565年・・・足利義輝が松永久秀に滅ぼされたのち、・・・1567年・・・5月19日に出家、・・・1571年<に>・・・織田信長のことを「熟したイチジクの如く木より地上に落ちるだろう」と評したことから信長の逆鱗に触れ、・・・斬首された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E5%AD%A3%E6%B2%BB
 「竹内家(たけのうちけ)は・・・いわゆる堂上源氏で家系は清和源氏の一家系・河内源氏傍流の信濃源氏平賀氏の一族の流れである。家格は半家、家業は弓箭と笙と和歌。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E5%AE%B6
 「久秀は日蓮宗本圀寺の塔頭・戒善院の大檀越であった。当時の畿内の日蓮宗(法華宗)の教義からすると、キリスト教のみならず他宗一般に対する彼の態度が否定的なものであったことは容易に推定される。そして、こうした推定を裏付ける傍証として、・・・1565年・・・7月5日に正親町天皇より三好義継に宛てて下されたキリスト教宣教師の洛外追放を命ずる女房奉書が、久秀自身による朝廷への要請と、彼と信仰を同じくしていた公家の竹内季治の進言に応じて発せられたものであったという事実<が>近年の・・・村井早苗<等による>・・・研究で明らかとなっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80
 村井早苗(1946年~)は、日本女子大卒、立大博士、日本女子大教授、同退任。日本キリシタン史専攻。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%BA%95%E6%97%A9%E8%8B%97

 この結果、宣教師たちは、京都から堺に落ちのび、その後は帰京のためにさまざま画策するが、しばらくはうまくいかなかった。
 ちなみに豊臣秀吉がキリシタン禁令を出したのは、この22年後の・・・1587<年>のことである。・・・」(9~10)

⇒女房奉書は、日蓮宗信徒で日蓮主義者であった竹内季治⇒同じく松永久秀⇒久秀の意見に従った三好義継⇒日蓮宗信徒ではないが日蓮主義者であった正親町天皇、という面々の連携で発出された、というのが、現時点での私の見方です。
 では、日蓮宗信徒ではないが日蓮主義者であったはずの織田信長、への久秀のその後の叛逆はどう考えるべきか。
 これは、キリシタン勢力を利用しようとしていた信長、かつまた、中央集権志向の信長、と、キリシタン勢力の無条件の排除を目指すに至った久秀、かつまた、封建制(地方分権制)維持を当然視していた久秀、との対立であった、と、やはり現時点では私は見ています。
 これに対し、信長への三好義継の叛逆は、中央集権志向と封建性維持志向、だけを軸とする対立であった、と見るわけです。(太田)

(続く)