太田述正コラム#11992(2021.5.1)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その2)>(2021.7.24公開)

 「<1567>年8月12日、三好長逸<(注3)>(ながゆき)・篠原長房<(注4)>・三好政康<(注5)>の三人から、中納言勧修寺晴右(はれすけ)を介して、「はてれい(伴天連)御わひ(詫)事」があった。

 (注3)?~?年。「三好一族の長老的立場であり、松永久秀と共に三好政権の双璧と称される。三好三人衆の1人で、その筆頭格であった。・・・」
 <1565>年7月、ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスが京都から追放されて堺に赴く際、長逸は護衛のために家臣を同行させ、通行税免除の允許状を与えている・・・。このためフロイスは長逸を異教徒でありながらも「生来善良な人」「教会の友人」と記している。・・・1566年・・・にも長逸について記録していて、「天下の4人の執政のうちの1人」・・・などと称えている。・・・
 『フロイス日本史』では山城国西岡の国人・革島氏の一族である革島ジョアンが長逸の甥とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E9%80%B8
 (注4)?~1573年。「三好長慶の弟・三好実休<(じつきゅう)>の重臣であり、実休討死の後は遺児・三好長治を補佐して阿波において三好家中をまとめた。・・・
 長房は宣教師たちから好意的に見られていた。長房は、キリスト教に入信こそしなかったが、深く理解し、その庇護に尽力した。キリシタン武士の三箇頼照(サンチョ)が、キリシタンの庇護を三好三人衆や長房の前で求めた時、長房はこれに理解を示し、「三箇の言っていることは道理が通っている」と述べたとされる。
 長房は、松永久秀らによって京都から追放されていたフロイスが、京都へ再び立ち入りが許されるように尽力した。長房は度々主君で宗家当主の三好義継にフロイスの京都復帰について請願している他、三人衆ともそのことについて幾度か話し合いをしていた。長房の部下の武士に武田市太夫と呼ばれるキリシタンの武士がいたが、長房のキリスト教の寛容な姿勢は彼の影響を受けたことが要因である。長房は彼の話を聞き入れ理解し、宣教師達に対して、「幾多の敬意と親情を以て」接し、また武田市太夫を介して朝廷に対してもキリシタンの庇護を請願する書状を何度も提出していた。また、『御湯殿上の日記』には、長房、三好長逸、三好政康の3人が、宣教師・・・についてのことで朝廷に請願したが、これが受け入れられることはなかったという趣旨の記述がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E6%88%BF
 (注5)三好宗渭(そうい。?~1569年?)。「一般には政康と呼ばれている<。>・・・、三好三人衆の1人である。・・・篠原長房の強い勧めもあり、都でのキリスト教布教についての斡旋を世話したりした。また、縁故のキリシタン(革島ジョアン)が裁かれた時に、ジョアンの生命・身分・財産が保証されるように促した事も知られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%AE%97%E6%B8%AD

 おそらく布教の許可を求めてのことだったと思われる。

⇒三好義継と松永久秀を除き、三好氏及びその関係者達は、ことごとくキリスト教に「汚染」されていた感がありますね。
 お目出度い連中であり、情けない限りです。(太田)

 しかし、それに対し正親町天皇は「中くのとりもあけられ候はぬよし」と受け入れられない旨の返事をしている。
 状況の転換は、織田信長の上洛によってもたらされた。
 信長上洛の翌<1569>年・・・、和田惟政<(注6)>の尽力によってフロイスは上京し、信長ついで将軍足利義昭に謁した。

 (注6)これまさ(1530?~1571年)。「甲賀武士53家のうち特に有力な21家に数えられ、・・・初めは六角氏の被官であったが、惟政の父の代<の>・・・1553年、三好長慶に追われた足利義輝が六角氏を頼って近江に逃れており、その時期に和田氏と足利将軍家の関係が生じて幕府の奉公衆化したと推定されている。・・・
 惟政<は、>・・・足利幕臣として京都周辺の外交・政治に大きく関与しながら、織田氏家臣としても信長の政治や合戦に関わるという義昭と信長の橋渡し的役割を務め<た。>・・・
 惟政はキリスト教を自領内において手厚く保護した・・・。フロイスが織田信長と会見するときに仲介役を務めたほか、教会に兵を宿泊させないよう他の武士たちに働きかけたり、内裏が伴天連追放の綸旨を出すとそれを撤回させようとしたり、宣教師をむりやりにでも自分の上座に座らせたりと、大変な熱意だったようである。畿内におけるキリスト教の布教にも積極的に協力した。しかし、惟政自身は洗礼の儀式を受ける前に戦死した・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%83%9F%E6%94%BF

 そして4月8日に信長から京都での布教を認められ、ついで将軍義昭からも許可の制札を得た。
 ところが同年4月25日、正親町天皇は、ふたたび宣教師追放を命じる綸旨を出し、その執行を将軍足利義昭に求めた。・・・
 なお、綸旨とは天皇の命を側近の者が奉じて伝えた文書である。
 再度のキリシタン追放の背後には、朝廷に近く信長からも信頼されていた法華僧朝山日乗がいたとされる。
 日乗は、この綸旨を義昭のもとに届け、宣教師の追放を求めるが、義昭は、京都居住の許可や追放の権限は天皇には属さず将軍のものであると答えた。
 そこで日乗は岐阜の信長のもとに行き、許可をもとめると、信長は「すべてを全日本の君であられる内裏に御一任する」と答えた。
 しかし追放撤回のために、信長の本拠地岐阜を訪れたフロイスとロレンソは、信長からは「内裏も公方様も気にするには及ばぬ、すべては予の権力の下にあり、予が述べることのみを行い、汝は欲するところにいるがよい」との返答を引き出した。

⇒フロイスらが岐阜を訪問したのは6月です
http://www.nobunaga-kyokan.jp/2007/07/18/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%8C%E3%81%BF%E3%81%9F%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%B1%85%E9%A4%A8%EF%BC%91/
が、信長は、その年の春までには信長の事実上の部下になっていた朝山日乗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%B1%B1%E6%97%A5%E4%B9%97
から、少なくとも、正親町天皇に綸旨を求める前にその話を聞いていたはずであるところ、想像を逞しくすれば、むしろ、信長が、この綸旨を出してもらった張本人だったのではないでしょうか。
 すなわち、信長は、自分は本件では天皇と全く同意見なのだが、自分は宣教師達を利用して軍需品や新知識を得ようとしているので、禁令の実行はしないが、禁令を出してもらうことで、宣教師達に自分を頼らせ、彼らから、積極的に協力を引き出すことができる、その上で、しかるべき時が来たら、必ず宣教師追放を実行するつもりだ、と、日乗を通じて天皇に言上させ、その了解を得た上でわざわざこの綸旨を出してもらったのではないか、と。
 日乗が岐阜に赴いたのは、結果の報告のため、とも。
 信長は、この後、この天皇の「活用」を続けるところ、当時からそう目論んでいたに相違なく、そんな天皇の逆鱗に触れるようなことを彼がするはずがない、と、私は思うのです。(太田)

 そして・・・1571<年>にはオルガンティーノを京都に迎え、さらに・・・1575<年>には信長の援助を得て教会を京都に建設した。・・・
 この一件は、キリシタン禁令を出す天皇、それを天皇の権限でないとする将軍義昭、さらにそれを無視し超越するがごとき態度をとった信長、それぞれが自己主張をしつつも、決定的な対立にいたらない、この時期の三者の微妙な力のバランスを良く示している。・・・」(10~12)

⇒藤井は、信長についてすらそうですが、とりわけ正親町天皇について、過小評価している、と、私は強調しておきたいと思います。
 彼に限らず、戦後日本の日本史学者達は、天皇家や歴代諸天皇を著しく過小評価しているので、これは彼だけの問題ではありませんが・・。(太田)

(続く)