太田述正コラム#11994(2021.5.2)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その3)>(2021.7.25公開)

 「1565<年>5月19日、・・・足利義輝が、三好長慶の跡を襲った三好義継と松永久秀等に・・・殺害された。・・・
 正親町天皇の対応は素早いものがあった。
 翌々21日、三好三人衆・・・の一人である三好長逸が、義嗣に代わって「御見舞」として参内すると、天皇は、長逸に対し小御所の庭で「御酒」を下賜した。・・・
 <こ>の丁重な応対は、京都支配の実権を掌握した者へすぐさますり寄りそれを取り込もうとする天皇・禁裏側がその安穏を確保するためにとった素早い対応であった。・・・

⇒「素早い対応」として、三好長逸への対応を「すり寄り」などという下品な言葉を用いて取り上げるのではなく、正親町天皇が、この権力の空白期を好機と捉えて、同年7月5日に宣教師追放の女房奉書を発出したことにこそ、藤井は注目すべきでした。(太田)

 三好三人衆と松永久秀・・・は、三好氏の本拠阿波に逼塞していた義栄<(注7)>を担ぎ出し、次期将軍に据えようと画策し始める。

 (注7)足利義栄(1538/1540~1568年)。「<第11代将軍・足利義澄の次男(実際には12代将軍・足利義晴より年長で長男とされる、・・・)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E7%B6%AD >
足利義冬<・・「義維」とも、と、大内義隆の娘の間・・>の長男として阿波国那賀郡平島の平島館で生まれる。・・・1565年・・・5月19日の永禄の変で従兄弟の13代将軍・足利義輝が三好義継と三好三人衆、松永久通らに殺害されると、三人衆らによって、中風で将軍の任に堪えられないであろうとされた父・義冬の代わりに、将軍候補として擁立された。・・・
 1566年・・・11月から三人衆と松永久秀が権力抗争を開始すると、久秀討伐令を出した。・・・1566年・・・6月、三人衆方の篠原長房・三好康長らに擁されて淡路国に渡海、9月23日には摂津国越水城に入城した。そして冬の12月5日には摂津国富田の総持寺に、12月7日には普門寺城に入った。
 将軍就任を争う足利義昭に半年遅れの・・・1567年・・・12月24日に従五位下・左馬頭への任官許可が出され、・・・1567年・・・1月5日に正式に叙任された。・・・
 ・・・1567年・・・11月、朝廷に対して将軍宣下を申請したが、朝廷の要求した献金に応じられなかったために当初は拒絶された。その後交渉が進展し、・・・1568年3月10日・・・、朝廷から将軍宣下がなされ、第14代将軍に就任した。・・・
 しかし、三人衆と久秀の抗争が止まず、義栄自身が背中に腫物を患っていたため将軍に就任しても入京せず、富田に留まった。
 ・・・1568年・・・9月、足利義昭を奉じて織田信長が上洛の動きを見せた。三人衆は畿内で信長に抗戦したが、敗れて畿内の勢力を失い、阿波に逃れた。その直後、以前から患っていた腫物が悪化して病死した。・・・
 没した月日<についても>・・・死去した場所<について>も・・・諸説ある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%A0%84

 <1566>年6月11日には義栄の先鋒として篠原長房が阿波から摂津兵庫に上陸、7月13日には摂津越水城を落としそこに入った。
 同月17日には・・・三好長逸が、樽代100疋、美物三種、雁二、鮎一折を正親町天皇に献上した。
 それに対し正親町天皇は、・・・ふたたび「御酒」を下賜した。
 実際、長逸は、朝廷の領地である御料所の違乱を止めたり、禁中を回覧する・・・。・・・
 こうした状況のもと、10月11日、・・・朝廷と・・・摂津<にあった>・・・義栄との折衝が始ま<り、>・・・正親町天皇は、同年12月28日で義栄を従五位下左馬頭に叙任した。・・・
 <その後、1568>年2月8日、正親町天皇は、義栄を征夷大将軍に任じ、禁色・昇殿を許した。・・・
 しかし、・・・義栄は、この後も京都に入ることなく、将軍としての実質はほとんど果たさなかった。・・・

⇒義栄の生年も、死去月日/死去場所も、諸説紛々、というのですから、彼を将軍に担いだ三好三人衆が、どれだけ彼を蔑ろにしていたか、ということでしょう。(太田)

 <正親町天皇は、この間の1566>年4月21日、義昭を従五位下左馬頭に叙任し<ている>。
 義栄の従五位左馬頭叙任に先立つこと9ヵ月前のことである。
 しかし、義昭の思う通りには事は進まず、義昭は、8月29日、有力守護であった若狭の守護武田義統<(注8)>(よしたね)のもとに身を寄せるが、義統親子の内紛で頼るすべを失い、間もなく越前の朝倉義景を頼って越前一乗谷に下った。

 (注8)1526~1567年。「若狭国守護。若狭武田氏8代当主。・・・正室・・・は義晴の娘(足利義輝・義昭の妹)<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E7%BE%A9%E7%B5%B1

 このようにこの時期の正親町天皇は、居所である京都の平安を念頭に置きつつ、義昭・義栄の両将軍候補を天秤にかけていたのである。」(13~17)

(続く)