太田述正コラム#11996(2021.5.3)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その4)>(2021.7.26公開)

「・・・1567<年>11月9日、正親町天皇は、織田信長の美濃攻略を祝して信長を「古今無双之名将」と褒めちぎった綸旨を出した。
 この年の8月15日、信長は、美濃稲葉山城を落とし、斎藤氏との7年に及ぶ抗争に終止符を打ち、その城下井ノ口を岐阜と改め、ここを新たな天下統一・・・天下布武・・・の拠点とし<てい>た。・・・
 <但し、>この綸旨では、誉め言葉だけではなく、尾張・美濃の御料所回復が求められている・・・。・・・
 同じ日、正親町天皇は、女房奉書をもって信長に誠仁(さねひと)親王<(注9)>の元服の費用を拠出するよう求めた。・・・

 (注9)1552~1586年。「1568年・・・12月に親王宣下を受け元服。資金難のため延び延びになっていたが、織田信長が費用を負担してようやく実現したものである。・・・
 ・・・1579年・・・11月以降、誠仁親王は織田信長が献上した「二条新御所」と呼ばれた邸宅に居を構えた。これはもとは二条家の邸宅であり、信長が気に入って二条家から譲り受けて大改造を施し、自らの居館とした建物であった。のちに徳川家康が造営した二条城とは別の建物である。二条新御所は、正親町天皇が居住する「上御所」に対して「下御所」と呼ばれ、禁裏(上御所)同様に小番も整備され、正親町天皇も朝廷の意志決定に際しては必ず誠仁親王に意見を求めるようになり、さながら「副朝廷」の様相を呈した。奈良興福寺の僧侶が残した日誌である「多聞院日記」や「蓮成院記録」では、誠仁を「王」「主上」「今上皇帝」などと呼んでおり、事実上の天皇(共同統治者)とみなされていたことがうかがえる。
 正親町天皇はすでに当時としては高齢であり、誠仁親王もいつ即位してもおかしくない年齢であった。しかし、朝廷が譲位にともなう一連の儀式を自力で挙行することは経済的に不可能であり、また先々代後柏原天皇・先代後奈良天皇・そして正親町天皇自身の3人の天皇のように、全国の戦国大名から広く寄付を募るという手法も、信長の覇権の下ではもはや使えなかった。朝廷は、譲位の実現をひたすら信長に働きかけざるを得ず、左大臣推任・三職推任など、朝廷としては破格の交換条件を提示して信長を動かそうとしたが、信長は明示的に拒絶することはなかったものの、その死に至るまで消極的な態度に終始した。ただし、安土城には天皇の行幸を迎える「御幸の間」が設置されており、これは誠仁親王の即位を想定したものと推測されている。
 本能寺の変の際、信長の嫡男信忠は宿所としていた妙覚寺を放棄し、より軍事施設として優れていた二条新御所に立て籠もった。「イエズス会日本年報」によれば、明智光秀の軍勢が御所を包囲するなか、誠仁親王は光秀に「自分も腹を切るべきか」と尋ねたという。自分が信長に擁立され、信長に依存した存在であり、信長が倒されればそれに殉じることもありうる立場であると誠仁は考えていたのである。幸い信忠に同行していた村井貞勝の交渉により、誠仁親王とその妻子・宿直の公家たちは御所を脱出し、禁裏に逃げ込んだ。・・・
 信長の後継者となった豊臣秀吉は、譲位して上皇となる正親町天皇のための「院御所」の建設に着手するなど、譲位に積極的に取り組む姿勢を見せたが、誠仁親王は譲位を待たずに・・・1586年・・・7月に薨去してしまった。・・・
 誠仁の遺児和仁親王(後陽成天皇)が同年11月に祖父の猶子とされて皇位を譲られた。・・・
 誠仁親王の五男興意法親王は織田信長の猶子、六男智仁親王は豊臣秀吉の猶子となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A0%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 さらに、この綸旨と女房奉書の添状として出されたのが、・・・万里小路惟房の<二通の>書状である。・・・
 前者の・・・書状は、・・・別して忠を存じ、あらゆることにおいて「馳走」することが肝要であ<って、>「御料所」等についてはその目録を出されたのでよろしく、というものである。
 後者は、若宮誠仁親王の元服の「申沙汰」を重ねて伝えたものである。
 確かにこの綸旨と女房奉書は、信長にとっては天下一統への足掛かりとなったが、正親町天皇の側からすれば美濃の攻略を契機に、それを褒めちぎることで、誠仁親王の元服費用と「御料所」の回復を目論んだものであり、一方通交の関係ではなく、天皇側からすれば御両所回復を求める後者にこそ意味があったといえよう。
 こうした正親町天皇からの攻勢に対して、信長は、同年12月5日付で・・・返事をした。・・・
 <しかし、それは、>綸旨や女房奉書が出されたことに礼を述べるものの、仰せ出(いだ)された条々については、まず以て心得たと、その内容は、素っ気ないものであった。」(19~23)

⇒例えば、その丁度一年前の「1566年・・・11月、・・・戦国大名としての尼子氏<を>滅亡<させたことによって、毛利>元就は<、>一代にして、毛利氏を中国地方8ヶ国を支配する大名へと成長させた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1
けれど、正親町天皇は、同様の綸旨等を毛利元就(1497~1571年)に送ってはいません。
 もとより、それよりずっと前、「大内氏の滅亡後、・・・1557年・・・に践祚した正親町天皇に対し、即位料・御服費用として・・・石見銀山<を>・・・資金源<として、>・・・総額二千五十九貫四百文を進献し<てもらったおかげで>、その即位式を実現させ<ることができ>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1
ことから、再度、元就にカネの進献を求めるのが憚られたということもあるでしょうが、注目すべきは、同天皇が、(元就よりも京に近くまで進出していたとはいえ、)信長だけに「古今無双之名将」という言葉を贈ったことでしょう。
 「<毛利>元就が構築した政治体制<が>・・・武田信玄などに通じるものがある<ところの、>・・・古来の血族支配や、国人・土豪といった守旧的勢力の存在を前提にした良くも悪くも保守的な体制でもあった<こと、そして、このこともあって、元就が、>・・・「天下を競望することなかれ」という言葉を残<すであろう>」ことを見通していた同天皇が、信長による天下統一に期待し、それに賭けたことを意味する、というのが、私の受け止め方なのです。(太田)

(続く)