太田述正コラム#11998(2021.5.4)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その5)>(2021.7.27公開)

 「・・・1568<年>9月、義昭・信長の入京にあたって、時の関白近衛前久が京都を出奔し大坂の石山本願寺に逃れた。
 これは、足利義昭の敵である松永久秀と深い関係を持っていたことが「佞人の所行」と義昭から糾弾されたことによるもので、『公卿補任(ぶにん)』<(注10)>は「武命を違えらる」とその理由を記している。

 (注10)「従三位以上で・・・いわゆる公卿に相当する者の名を官職順に列挙する。・・・各人の名の下には、生没年、昇叙・任官などの事歴を付記している。『国史大系』本には神武天皇の代から明治元年までの分を含む。
 公卿補任の作者、成立年代は不明であるが、・・・811年・・・に成立した「歴運記」を基に、以後の分を書き足していったものと考えられている。後年の詳細な尻付(しつけ)を伴った形態としての本書の成立は、・・・10世紀後半・・・とみられている。なお非参議の項は、長和以後に補足されていったとみられている。
 任官についてもっとも纏まった史料であるが、平安時代前期における記事の不正確さや政治的な事情から書き直し(遡った期日での任官など)が行われた部分もあるといわれており、実際の任官と合致しない場合がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%8D%BF%E8%A3%9C%E4%BB%BB

 この時、前久の屋敷は義昭によって闕所とされた。
 この前久の在国は、・・・1575<年>の帰洛まで7ヵ年に及ぶが、その間、最初は大坂ついで丹波にあって、反信長包囲網構築に助力した。

⇒前久の「放浪」は、この時に限りません。
 その私の解釈を、次回オフ会「講演」原稿中で明らかにするつもりです。(太田)

 前久同様、「武命」に違ったものたちがいた。
 その一人である中納言勧修寺晴右<(注11)>は蟄居、参議高倉<(注12)>永相(ながすけ)・永孝父子は大坂に、参議水無瀬<(注13)>親氏(ちかうじ)は三好三人衆の本拠阿波へと出奔した。

 (注11)1523~1577年。「内大臣・勧修寺尹豊の子。室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱を賜り、晴秀と名乗る(のち晴右(はれみぎ/はるすけ/はれすけ)に改名)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A7%E4%BF%AE%E5%AF%BA%E6%99%B4%E7%A7%80
 「勧修寺家<(かじゅうじけ)は、>・・・藤原北家勧修寺流の支流の公家<。>・・・家格は名家。藤原高藤の子孫の系統を「勧修寺流」と言うが、嫡流は勧修寺家ではなく、甘露寺家である。ただし、戦国時代から江戸時代初期に勧修寺家から2代の国母を輩出した事から、当時は勧修寺家を嫡流とみなす説もあり、それに基づいて書かれた文献もある・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A7%E4%BF%AE%E5%AF%BA%E5%AE%B6
 (注12)「高倉家・・・は、藤原北家である藤原長良の子孫である従二位参議高倉永季(たかくらながすえ<。>1338–1392年)を祖とする堂上家。家格は半家。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%80%89%E5%AE%B6
 (注13)「水無瀬家・・・は、藤原北家隆家流の藤原親信を祖とする堂上家である。家格は羽林家。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%84%A1%E7%80%AC%E5%AE%B6

 いずれも三好三人衆らが擁立した14代将軍義栄の将軍宣下に深く関わったためである。・・・
 <さて、>信長を副将軍にしようとする構想は、義昭が将軍宣下を受けた直後にまずみられる。
 義昭は、恩賞として信長に副将軍<(注14)>でも管領・・・でも望次第に就けようと持ちかけたが、信長はそれを固辞し、堺・草津<(注15)>・大津に代官を置くことを求め、早々に京都を発って岐阜へと帰った。

 (注14)「鎌倉幕府にお<いては、>・・・一度も副将軍が任ぜられる例はなかった<が、>・・・室町時代において<は、>・・・1338年・・・、足利尊氏の弟足利直義が征夷副将軍に任ぜられ<、>・・・また、足利義持の時代に上杉禅秀の乱の鎮圧に功績があった今川範政が副将軍に任ぜられたといわれ、足利義尚の時代にも斯波義寛が「常徳院殿(義尚)御代副将軍」として副将軍に任ぜられた<。>・・・
 管領職の任免権は将軍の専権事項だが、副将軍の任免権は朝廷が握って<いた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%AF%E5%B0%86%E8%BB%8D
 (注15)「当時の草津は、東海道・中山道および琵琶湖の湖上交通を結ぶ交通の要衝であり、鉄砲の名産地であり世界的な貿易港としての役割を持つ堺や、京都の外港あるいは衛星都市としての役割を持つ大津と並び重視されていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E6%B4%A5%E5%B8%82

 副将軍や管領になることで将軍義昭の下位に位置づけられることを信長は嫌ったのであろう。

⇒そういう「低次元」な話ではなく、信長は、封建制を前提としたところの、将軍を頭に戴く幕府制、ではなく、中央集権制を前提としたところの、中央政府の樹立・・中央政府制への復帰・・を目指していたので、幕府の中に入るわけにはいかなかった、というのが私の見解です。(太田)

 副将軍の構想が、ふたたび持ち上がるのは、・・・1569<年>3月のことで、それは正親町天皇の側から持ち出された。・・・
 しかし、信長は、それに何の返答もせず、事実上無視した。
 正親町天皇や朝廷からの誘いに対し、返事をしないという対応は、信長が死去する・・・1582<年>にいたるまで、重要な局面で信長がしばしばとった特徴ある行動であり、戦術である。」(28、34~35)

(続く)