太田述正コラム#12000(2021.5.5)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その6)>(2021.7.28公開)

 「・・・正親町天皇は信長に対し・・・<上出の>女房奉書<等>・・・には明記されていなかった禁裏の修造<も>求めていた。
 入京の翌年、<1569>年正月から近隣の大名にも役を賦課し完成を急いでいた義昭のための二条第の築造が終わると、同年4月、信長は、朝山日乗と村井貞勝を奉行に禁裏修造を開始した。
 この修造は大規模なものであったよう<だ。>・・・
 <これは、>公家たちにも評価されたと同時に世間からも十分注目され、信長の都における評価は大いに高まった。
 禁裏修造の工事が進展するさなかの<1570>年・・・2月・・・「禁中御修理、武家御用、その外天下いよいよ静謐」のためを掲げて諸大名に上洛を求めることで、信長は、これに従わないものを追討する名目を手にしたことになる。
 そしてそれは、越前朝倉攻めとして具体化されていく。
 <また、>誠仁親王の元服は、・・・1568<年>12月19日に執行された。・・・
 <これ>については、・・・正親町天皇が・・・<上出の>・・・女房奉書で、その費用を出すよう求めていた<ものだが、>・・・信長からの銭300貫の進上があってようやく実現したのである・・・
 <さて、1570年、>織田軍に攻められた浅井・朝倉軍は、比叡山に軍を引いた。
 これをみた信長は、延暦寺に、信長に味方するか、そうでなくとも信長方の叡山内での軍事行動を容認するかを求め、どちらも採らないのであれば一山を焼き払うと、恫喝した。
 しかし、延暦寺は、浅井・朝倉軍を山上に入れることでこれに応えた。・・・
 12月・・・正親町天皇の綸旨、将軍義昭の御内書(ごないしょ)、下知状、さらに信長の誓紙が出されることで、ようやく和睦が調<った。>・・・
 信長にとってこの和睦は、・・・窮地に追い込まれるなかでのものであり、こうした状況から脱するには他に望むべき手段のない有効な対応であった。
 これを正親町天皇側からみれば、<信長窮地の>そうした状況をなんとか回避しなければならなかった。
 この和睦が、信長主導ではなく朝廷・幕府主導でなされたことは、この朝廷の性格の一端を物語るものである。・・・

⇒このくだりに藤井は典拠を付けてくれていませんが、信長にとって有利な和睦であるとすれば・・私もそのことに同意です・・、それは、信長が正親町天皇を動かして和睦にこぎつけた、と、見るのが自然ではないでしょうか。(太田)

 <ところが、信長は、1571年>8月・・・12日暁天、上坂本に放火、ついで日吉社(ひえしゃ)、山上の東塔・西塔・無動寺(むどうじ)を焼き払い、「山衆」はことごとく討ち死にし、大宮辺・八王子では数度の戦があるが、ことごとく討ち取られ、その数、僧俗男女あわせて3、4千人にも及んだとしている。・・・
 信長は、この比叡山焼き討ち<(注16)>を前もって正親町天皇にも将軍義昭にも伝えてはいなかったと思われる。

 (注16)「当時の比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕であった。・・・
 先の比叡山の攻防戦では、比叡山側は信長が横領した寺領の返還を約束する講和も拒絶し、浅井・朝倉連合軍を援けたりもしたので、信長側は軍事的拠点を完全に破却しようと考えたとされている。・・・
 この動きを察知した延暦寺は、黄金の判金300を、また堅田からは200を贈って攻撃中止を嘆願したが、信長はこれを受け入れず追い返した。ここに至り戦闘止むをえないとしたのか、坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達を山頂にある根本中堂に集合させ、また坂本の住民やその妻子も山の方に逃げ延びた。・・・
 信長は戦後処理を明智光秀に任せ<ている。>・・・
 延暦寺や日吉大社は消滅し、寺領、社領は没収され明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀に配分した。この5人の武将達は自らの領土を持ちながら、各々与力らをこの地域に派遣して治めることになる。特に光秀と信盛はこの地域を中心に支配することになり、光秀は坂本城を築城することになる。・・・
 新井白石が『読史余論』で「その事は残忍なりといえども、永く叡僧(比叡山の僧)の兇悪を除けり、是亦天下に功有事の一つ成べし」として以降、比叡山焼き討ちは肯定的に評価されてきた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%8F%A1%E5%B1%B1%E7%84%BC%E3%81%8D%E8%A8%8E%E3%81%A1_(1571%E5%B9%B4)
 「覚恕は事件5日前の9月7日に参内して朝廷に相談(内容は不明)を持ち掛けており、2日後の重陽の節句にも参加している。そのため事件当日は在京しており難を逃れた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E6%81%95
 「琵琶湖の狭窄部に位置<する>・・・堅田(かたた)<で>は、・・・殿原衆(地侍)と全人衆(商工業者・周辺農民)からなる「堅田衆」による自治が行われており、「堅田湖族」とも呼ばれてもいた。殿原衆は堅田の水上交通に従事して堅田船と呼ばれる船団を保有して、時には海賊行為を行って他の琵琶湖沿岸都市を牽制しつつ、堅田衆の指導的な地位を確保していた。一方、全人衆の中には商工業によって富を得るものも多く、殿原衆との共存関係を築いてきた。
 室町時代、殿原衆は延暦寺から堅田関の運営を委任されて、堅田以外の船より海賊行為を行わない代償として上乗(うわのり)と呼ばれる一種の通行税を徴収する権利を獲得するようになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%85%E7%94%B0

 前年の信長と朝倉・浅井・比叡山との和睦を推進した将軍義昭はもちろん正親町天皇にとっても、比叡山焼き討ちは、前年の約束を反故にする行為であり、知らされていたならば、正親町天皇も将軍義昭も、阻止するためのなんらかの動きを見せたはずである。・・・

⇒宣教師追放の件の時と同じことが繰り返された、と、私は見ています。
 信長は、和睦に向けての綸旨を出してもらうように正親町天皇に依頼し、同時に、その和睦は守るつもりはなく、最初に、まず、比叡山を無害化するつもりである旨も奏上し、天皇は全て了解した上で綸旨を発出した、と。
 どうして、そんな芸当が信長にできたか、については、次のオフ会「講演」原稿で説明します。(太田)

 <なお、>信長<は、>・・・焼き討ちの翌日上洛し将軍義昭のもとに参上<している。>
 <また、>その後宿舎の妙覚寺に入った信長に対し、・・・正親町天皇は、・・・中納言飛鳥井雅教<(注17)>を勅使として送った。

 (注17)その後改名して飛鳥井雅春(1520~1594年)。権大納言になるまで、兼務を含め武官職ばかりを歴任してきた珍しい経歴の持ち主。この時点では従二位だったが、1974年に正二位、1975年に権大納言に昇っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%95%E9%9B%85%E6%98%A5
 その父親の飛鳥井雅綱は、「官位は従一位・権大納言。・・・1533年・・・7月、織田信秀に請われて尾張国へ蹴鞠の伝授に出かけ、勝幡城、清州城で蹴鞠会を開催し、多くを門弟にした・・・。<また、>武家伝奏を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%95%E9%9B%85%E7%B6%B1
 「飛鳥井家(あすかいけ)は、藤原北家師実流(花山院家)の一つである難波家の庶流である。家格は羽林家。・・・代々和歌・蹴鞠の師範を家業とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%95%E5%AE%B6

 この時、何が信長に伝えられたか知ることはできないが、信長の返事は「かしこまりたるよし」とのことであった。」(35~37、58、60~63)

⇒正親町天皇が、互いに父親がポン友同士であった人物をわざわざ信長への勅使にしたところからも、少なくとも、信長が、本件でこの天皇のご不興を買った気配はありませんよね。(太田)

(続く)