太田述正コラム#12004(2021.5.7)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その8)>(2021.7.30公開)

 「義昭が槙島に退去した直後の・・・1573<年>7月13日、信長は、安芸の毛利輝元に書状を贈った。
 そのなかで義昭が現在、槙島にいるのかどうかは分からず、きっと遠国に「流れ落」ちられているのだろう、誠に歎かわしいことである、とつぜん「御退座」された理由は、甲斐の武田信玄が死去し、越前の朝倉義景もさしたる働きもなく、三好勢等も軍勢不足であるので、特に軍事行動に及ばれる様子もない、畿内はこのような様子である、と述べたのに続き、「いわんや天下棄て置かるうえは、信長上洛せしめ取り静め候」と記した。

⇒信玄が死去したのは1573年4月12日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84
でしたが、三か月後の書状で、信長は死去を断定的に書いている一方で、義昭が槙島城にいることは知っているに決まっているのに、あえてとぼけて書いており・・義昭の槙島城での降伏は7月18日・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD
、面白いですね。(太田)

 すなわち、義昭が「天下」ここでは京都を見捨てた以上、信長が上洛し「天下」を取り静めると宣言している。

⇒ここでは、「京都」ではなく、「京都を中心とした<京都とその>周辺地域」の意味
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E4%BA%BA
で、信長は、「天下」という言葉を使ったのではないでしょうか。(太田)

 ここに信長は、自らを天下人と位置づけたのである。・・・

⇒当時、信長は、従五位下・弾正忠と称していたけれど、「朝廷から正式な<弾正忠の>叙任を受けていない」(85)ので、何と無官であったというのに、天下人を自認したことになります。。
 なお、信長は、その後、翌1574年の3月18日、(その直前に従四位正従になっていたけれど、)従三位・参議、そして、1575年11月4日に権大納言、7日に兼ねて右近衛大将、更に、1576年11月13日に正三位・兼ねて内大臣、1577年11月16日に従二位・右大臣(兼右近衛大将)、になってはいます。
 ところが、1578年正月6日に正二位、4月9日に右大臣・右近衛大将の両官を辞任してしまいます。
http://www1.clovernet.ne.jp/kurohoro/his/oda/name/index.htm ←事実関係
 もちろん、この時点でも引き続き、自称天下人であったわけですが、爾後、信長は、何と無官の天下人を1582年に殺害されるまで自称し続けることになるのです。
 これは、空前絶後の、ある意味、とんでもないことでした。
 このことは、もっと注目されてしかるべきでしょう。(太田)

 1572<年>、叛旗を翻した松永久秀の降伏の願いを入れた信長は、3月17日上洛し、・・・その直後に朝廷に蘭奢待<(注22)>の拝見とその切り取りを申し入れた。

 (注22)らんじゃたい。「東南アジアで産出される沈香と呼ばれる高級香木。日本には聖武天皇の時代(724年–749年)に<支那>から渡来したと伝わる<。>・・・
 正倉院の中倉薬物棚に納められており、これまで足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇らが切り取っている。なお、信長は切り取った蘭奢待を一つは自分のもとに、もう一つは朝廷(正親町天皇)に渡した。その後、朝廷から毛利輝元に下賜され、輝元は厳島神社に宝物として収めた。・・・
 正倉院宝物目録での名は黄熟香(おうじゅくこう)で、「蘭奢待」という名は、その文字の中に”東・大・寺”の名を隠した雅称である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%AD%E5%A5%A2%E5%BE%85

 信長のこの申し出を聞いた正親町天皇は、・・・反発するが、結局は、信長の申し入れを吞まざるをえなかった。・・・

⇒土岐頼武「ごとき」の先例がある以上、仕方ないですよね。(太田)

 この時期の正親町天皇は、信長を介することなく信長以外の戦国大名にたいしても、・・・御料所・・・回復の綸旨を出している。
 ただ、これが実現したかは別の問題である。・・・」(78~79、95)

⇒「歴史学者の藤田達生は、依然として義昭の勢力は幕府としての実態を備えており(鞆幕府論)、義昭の「公儀」信長の「公儀」が並立する状態にあったと論じている。この「鞆幕府」という名称が適切かはともかく、藤田の議論の観点は妥当なものであると評価されている。この視点に立てば、これ以後の信長の戦争は、天下統一戦争というよりも、足利氏とそれを支持する他の戦国大名に対する戦いであると考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
的な見方が当時でもあった以上、天皇としては、信長の実効支配下の地域以外の地域における御料所の回復は、現地を実効支配する戦国大名に直接綸旨を下すほかなかったのでしょうね。(太田)

(続く)