太田述正コラム#12008(2021.5.9)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その10)>(2021.8.1公開)

 「・・・1571<年>の信長の比叡山山焼き討ちでともに焼失した日吉社の社務行丸の<1579>年6月の記録に、
  大乱以後断絶文已上(いじょう)百八社再造の事、綸旨をなさるべきの処(ところ)、織田信長諸事について綸旨を押さえ、御停止あるべきの由、堅く申し定め畢(おわんぬ)、信長判形をもって下知いたすうえは、公家御沙汰及ばざる旨申し候也、
 とある。
 正親町天皇が焼き討ちで失われた「百八社再造」の綸旨を出されたが、信長がそれを押さえ、再造を停止してしまった。
 信長が「判形」<(注25)>をもって下知したものは、朝廷の沙汰に及ばないとの信長の命である、というのである。

 (注25)「はんぎょう・・・書き判。また、印形(いんぎょう)」
https://kotobank.jp/word/%E5%88%A4%E5%BD%A2-117882

 ここには信長が実質的には天皇・朝廷の上位に立っている姿をみることができる。

⇒ある意味繰り返しになりますが、そんな解釈は成り立ち得ません。
 この時点では再び無官になっていたとはいえ、自他ともに許す、日本の最高権力者であったところの、信長、が、かつて破壊した社寺を再建するかどうかについて、信長の頭ごなしに正親町天皇が綸旨を発給するはずがないのであって、現に、信長は、単に、「綸旨をなさるべき処」(≒天皇が綸旨を出そうかと調整したが、それ)を「押さえ」(≒信長が反対したので出すに至らなかっ)た、としか書かれていません。
 「信長判形をもって下知いたすうえは」も、素直に、「信長が正式に命じるまでは」と、あくまで将来の話として受け止めるべきでしょう。(太田)

 少し趣は異なるが、<1582>年3月信長が信濃・甲斐攻めに出陣した折、奈良の興福寺多聞院英俊がその日記に次のような噂を記している。
  内裏(正親町天皇)ヨリ信長ノ敵国ノ神達ヲ悉く流され了、信長本意節ハ勧請あるべきトノ事云々、神力・人力及ばざる事也、一天一円随(したが)うべきト見タリ、抑々(そもそも)、
 この出陣にあたって正親町天皇が信長の敵国の神たちをことごとく流した、信長によるその国の平定がなされれば、ふたたび勧請<(注26)>するとのことだ、「神力・人力」が及ばぬことであるというのである。

 (注26)かんじょう。「神道では,離れた土地より分霊を迎え遷座鎮祭すること,すなわち,本祀の社の祭神の分霊を迎えて新たに設けた分祀の社殿にまつること。もともとは仏教より出た語で,仏に久住して法輪を転じ衆生を擁護することを請う,という意で用いられたが,のちに仏菩薩を他に請じて久住を願うことに転じて用いられるようになった。日本では神仏習合の発展によって,八幡大菩薩や熊野権現などの垂迹神の神託を請うことを勧請といい,さらに神仏の霊を招いて奉安することをいうようになり,そこに勧請された神を勧請神と呼ぶようになった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8B%A7%E8%AB%8B-48893

 この背景には、天皇をも上回る信長の強大な力をみることができよう。」(141~142)

⇒藤井自身が、「正親町天皇が信長の敵国の神たちをことごとく流した」と、「正親町天皇が」を付けた形で現代訳しているのですから、信長ができないことを信長が天皇にやってもらっているということであって、そこに「天皇をも上回る信長の強大な力をみること」などできるワケがありません。
 補足しますが、当時の社格制度がどうなっていたのかの詳細が分かっていないようではあるものの、律令時代末期の『延喜式』(927年)によれば、『延喜式神名帳』に記載されている神社を式内社(しきないしゃ)といい、『延喜式』の時代に明らかに存在していても延喜式神名帳に記載されていない神社を式外社(しきげしゃ)といい、式内社は2861社が記載されていたという
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E6%A0%BC
「社格」を天皇が定めることが、(人に官位を与えたりその官位を剥奪したりすることができたのと同様、)できたと思われるところ、例えば、式内社を式外社に落とすことによって、当該神社を事実上廃止する、といったことも、天皇にはできたのではないでしょうか。
 つまり、そういう意味で、天皇は、「神力・人力」を左右できる力を有する存在であったわけで、かかる力を持ち合わせなかったからこそ、そういったことを、信長は正親町天皇にやってもらう必要があった、ということです。
 蛇足ながら、これは、信長自身が、社格なり官位なりの意義というか効能を信じていたことを意味するものではなく、恐らく信じてなどいなかったでしょうが、信長以外の戦国大名達を含む当時の衆生の殆どは信じていたと想像される以上、そういったことを天皇にやってもらった方が自分にとって好都合だ、と、彼は考えたに違いない、ということですので、誤解なきよう、お願いします。(太田)

(続く)