太田述正コラム#12010(2021.5.10)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その11)>(2021.8.2公開)

 「・・・<1582年6月13日の山崎の合戦での>明智軍敗退の報が京都に伝わ<り、>・・・翌14日には織田信孝・羽柴秀吉が上洛するとの報を得て、正親町天皇は勧修寺晴豊を勅使として両人のもとに送るとともに、太刀を贈った。
 また、誠仁親王も広橋兼勝(かねかつ)を勅使とし太刀を贈った。
 勧修寺晴豊等は京都の南の塔森(とうのもり)まで出向き、信孝・秀吉を待ち、その地で馬からおりた両人に正親町天皇・誠仁親王からの太刀を手渡した。
 これに対し両人は「一段はやくとかたじけなき由」を申した。
 その場には、勅使だけでなく出迎えの公家衆がいた。
 京都を掌握した者、ここでは光秀ついで信孝・秀吉に、かつて義昭・信長が入京したときと同様、素早く擦り寄る天皇の姿をみることができる。・・・
 同じ年の10月3日、正親町天皇は、羽柴秀吉に宛て昇殿と少将推任を趣旨とする綸旨を出した。・・・
 正親町天皇の側から、秀吉取り込みが計られたのである。
 しかし、この綸旨にもかかわらず秀吉は、この時には叙任を受けることはなかった。

⇒この綸旨の中で、「官位についてたびたび仰せ出されたが辞退している、後代のためであるので小伝を許し少将に叙任する」という趣旨の記述が出てきますが、要するに、秀吉に対して天皇から官位を与えようとした、ということを史実として残すために、秀吉と調整し、秀吉からの返事はないとの前提でこの綸旨発給に至ったということでしょう。
 秀吉が、この時点まで、官位辞退を続けてきたのは、信長が当初無官無位を通した前例に倣ったものでしょうね。(太田)

 一方、朝廷では、信長への「太政大臣従一位」の贈官贈位が俎上にのぼり、・・・10月・・・9日に・・・正式に決まった。・・・

⇒こちらの方については、信長が死亡しているので、一方的に決められた可能性があります。(太田)

 1584<年>3月に始まった羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の連合軍との間の戦いである小牧・長久手の戦い<(注27)>がなお続く中<の>・・・10月<、>・・・秀吉から「昇進」のことが禁裏に申し入れられ、正親町天皇は「四位参議大将」に<す>・・・るとの勅定を示したが、秀吉の望みで「五位ノ少将」となった<。>・・・

 (注27)1584年3~11月。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E3%83%BB%E9%95%B7%E4%B9%85%E6%89%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

⇒9月に入ってから、秀吉は、妻籠城の戦い、末森城の戦い、(そして、結果的に、信雄・家康に対する最後の戦いとなった)戸木城の戦い、で、いずれも勝利を挙げており、全国的な規模で行われた小牧・長久手の戦いの対徳川・織田戦域における秀吉の最終的勝利の目途が付くに至っていた(上掲)、ということがあるとしても、微妙なタイミングでの叙位叙官であり、朝廷の情勢判断の的確さが印象的です。
 この時までに、秀吉としては、やはり、国内の統一過程においては、朝廷から叙位叙官を受けていることが極めて有効である、という結論に至っていた、ということでしょう。(太田)

 この叙任の背景には、正親町天皇の譲位と誠仁親王の即位と<いう懸案>があった。・・・
 すなわち秀吉<が>、即位費用、仙洞御所作事費用、院の費用、合計一万貫の拠出を約束したので・・・正親町天皇は、・・・その見返りとして官位を与えたのである。・・・
 11月15日、信雄<(注28)>と秀吉とのあいだで、信雄・家康から人質を提出することで、秀吉優位の講和が成立した。

 (注28)「藤田達生は、山崎や賤ヶ岳で勝利した秀吉が信長の政権を直接継承した訳ではなく、信雄が秀吉に臣従するまでは親子2代の織田政権(安土幕府)であったとする見解を示している。・・・
 1584年・・・3月6日、<信雄は、>家康と相談した上で・・・秀吉に宣戦布告をする(小牧・長久手の戦い)。・・・また<、信雄は、>長宗我部元親・佐々成政・雑賀衆とも結び連合して羽柴家と戦った。・・・
 11月15日、伊賀と南伊勢に加え北伊勢の一部の秀吉への割譲などを条件に、家康に無断で単独講和を結んだ。このため、信雄を擁していた家康は、秀吉と戦う大義名分を失って撤兵した。なお、柴裕之はこの講和の後に秀吉は信雄を正式な織田家の当主(三法師の名代ではなく)に据えたとする。
 以降は秀吉に臣従し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%9B%84

 11月21日に上洛した秀吉を、正親町天皇は、翌22日、従三位大納言に叙任した。
 明らかに秀吉優位の信雄・家康との講和をみての叙任である。・・・

⇒信長は、ついに正式参内をしなかったのではないかと思いますが、秀吉はこの時を含め、どうだったのかを、藤井に教えて欲しかったところです。(太田)

 小牧・長久手の戦いのあと、はじめて大坂で秀吉に謁した織田信雄は、・・・1585<年>2月・・・26日、・・・正三位大納言に叙任<され>た。
 この信雄の大納言任官は、秀吉の執奏によるものであった。
 秀吉は自ら当官である大納言を辞し、一時的に散位(位階だけで官職についていなこと)になる。・・・
 秀吉の執奏による信雄の大納言任官は、信雄の事実上の秀吉への臣従を、朝廷の官位体系のなかに改めて位置づけたもので、この後の上杉景勝、徳川家康の上洛、秀吉臣従後の秀吉の執奏による任官の魁をなすものであった。・・・
 ほとんど時をおかず、<秀吉は、>3月10日に正二位内大臣に叙任された。」(148、150~152、158~162)

(続く)