太田述正コラム#12012(2021.5.11)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その12)>(2021.8.3公開)

 「・・・この任官は、勅使をもって秀吉に伝えられ、即日秀吉は慶を奏するために参内する。・・・

⇒どうやら、この時、初めて、秀吉は参内したようですね。(太田)

 <このことに伴う一連の人事の結果、>右大臣<が>・・・空きポストとなった<のだが、>・・・内大臣となった秀吉は、・・・右大臣は信長の凶例があるので左大臣を望むと言い出した。
 そこで、<右大臣から左大臣に転任した>近衛信輔<(注29)(コラム#1198)>は、自らが当官のうちに関白職に就きたいと内々に関白二条昭実<(コラム#11980)>に申し入れるが、二条昭実は、「一ケ年ノ内に当職(関白)を辞退した例は二条家にはない」と突っぱねた。・・・

 (注29)(改名して)近衛信尹(のぶただ。1565~1614年)。「秀吉が秀次に関白位を譲ったことに内心穏やかではなく、更に相論の原因を作り、一夜にして700年続いた摂関家の伝統を潰した人物として公家社会から孤立を深めた事に苦悩した信輔は、・・・1592年・・・正月に左大臣を辞した。
 文禄元年(1592年)、秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすと、同年12月に自身も朝鮮半島に渡海するため肥前国名護屋城に赴いた。後陽成天皇はこれを危惧し、勅書を秀吉に賜って信尹の渡海をくい止めようと図った。廷臣としては余りに奔放な行動であり、更に菊亭晴季らが讒言したために天皇や秀吉の怒りを買い、・・・1594年・・・4月に後陽成天皇の勅勘を蒙った。
 信尹は薩摩国の坊津に3年間配流とな<っ>・・・た。京より45人の供を連れ、坊の御仮屋(現在の龍巌寺一帯)に滞在、諸所を散策、坊津八景(和歌に詠まれた双剣石一帯は国の名勝に指定)、枕崎・鹿籠八景等の和歌を詠んだ。地元に親しみ、書画を教え、豊祭殿(ほぜどん・毎年10月第3日曜日・小京都風十二冠女)の秋祭や御所言葉、都の文化を伝播。鹿児島の代表的民謡『繁栄節(はんやぶし)』の作者とも伝えられる。またこの時期、書道に開眼したとされる。・・・遠い薩摩の暮らしは心細くもあった一方、島津義久から厚遇を受け、京に戻る頃には、もう1、2年いたい旨書状に残すほどであった。
 1596年・・・9月、勅許が下り京都に戻る。
 慶長5年(1600年)9月、島津義弘の美濃・関ヶ原出陣に伴い、枕崎・鹿籠7代領主・喜入忠政(忠続・一所持格)も家臣を伴って従軍したが、9月15日に敗北し、撤退を余儀なくされる。そこで京の信尹は密かに忠政・家臣らを庇護したため、一行は無事枕崎に戻ることができた。また、島津義弘譜代の家臣・押川公近も義弘に従って撤退中にはぐれてしまったが、信尹邸に逃げ込んでその庇護を得、無事薩摩に帰国した。
 信尹の父・前久も薩摩下向を経験しており、関ヶ原で敗れた島津家と徳川家との交渉を仲介し、家康から所領安堵確約を取り付けた。
 ・・・1601年・・・、左大臣に復職した。
 ・・・1605年・・・7月23日、念願の関白となるも、翌11年11月11日に関白を鷹司信房に譲り辞する。だが、この頻繁な関白交代は、秀吉以降滞った朝廷人事を回復させるためであった。・・・
 信尹には庶子しかいなかったので、後陽成天皇第4皇子で信尹の異腹の妹・中和門院前子の産んだ二宮を後継に選び、近衛信尋を名乗り継がせ、自身の娘(母は家女房)を娶らせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%B9

⇒「注29」中に出てくる、信輔の薩摩に配流なんて話は、島津家と近衛家との一心同体性を踏まえれば、慰労長期出張のようなものですよね。(太田)

 正親町天皇はこの件を決着させることができなかった。・・・
 所司代前田玄以<(注30)(コラム#11342、11942)>(げんい)から近衛と二条との関白職をめぐっての争論の様子を聞いた秀吉は、もし争論で近衛家が負けたならば一家の破滅というべきもので、朝廷のためにもしかるべきではない、そこで秀吉が関白の詔を申し請けたいと思うが如何か、この件を近衛前久・信輔父子に尋ねよと、玄以に命じた。

 (注30)1539~1602年。「若いころは美濃の僧で、禅僧あるいは比叡山の僧ともいう・・・。・・・後に織田信長に招聘されて臣下に加わり、信長の命令でその嫡男・織田信忠付の家臣となる・・・。・・・1582年・・・の本能寺の変に際しては、信忠と共に二条御所にあったが、信忠の命で逃れ、嫡男の三法師を美濃岐阜城から尾張清洲城に移した。
 ・・・1583年・・・から信長の次男・信雄に仕え、信雄から京都所司代に任じられたが、・・・1584年・・・に羽柴秀吉の勢力が京都に伸張すると、秀吉の家臣として仕えるようになる。・・・1595年・・・に秀吉より5万石を与えられて丹波亀山城主となった。
 豊臣政権においては京都所司代として朝廷との交渉役を務め<た>・・・。また寺社の管理や洛中洛外の民政も任され・・・ている。・・・1598年・・・、秀吉の命令で豊臣政権下の五奉行の一人に任じられた。・・・
 秀吉没後は豊臣政権下の内部抗争の沈静化に尽力し、徳川家康の会津征伐に反対した。・・・1600年・・・、石田三成が大坂で挙兵すると西軍に加担、家康討伐の弾劾状に署名したが、一方で家康に三成の挙兵を知らせるなど内通行為も行った。また豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残り、さらには病気を理由に最後まで出陣しなかった。これらの働きにより関ヶ原の戦いの後は丹波亀山の本領を安堵され、その初代藩主となった。・・・
 当初キリシタンには弾圧を行っていたが、後年には理解を示し、秀吉がバテレン追放令を出した後の・・・1593年・・・、秘密裏に京都でキリシタンを保護している。・・・
 ちなみに息子2人はキリシタンになっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E7%8E%84%E4%BB%A5

 玄以は信輔のもとに行き、秀吉の意向を伝えると、信輔は関白の職は摂家五家以外のものが望むべきではないと答えた。
 一旦引き下がった玄以が再度信輔のもとにきて、それならば秀吉が前久の猶子となり信輔の兄となり、関白職はやがて信輔にに渡すということでどうか。
 それにあたって礼として近衛家に1000石、九条・二条・一条・鷹司家には500石ずつの領地を宛行(あてが)うことでどうかと持ちかけた。
 こうした秀吉の攻勢のもとに、信輔から話を聞いた前久は「関白ノ濫觴ハ一天下ヲアツカリ(関リ)申(曰)ヲ云也、而ニ今秀吉四海ヲ掌ニ握レリ、五家ヲコト〈ク相果(あいはた)サレ候トモ、誰カ否(いな)ト申ヘキニ、如此(かくのごとく)再三ノ届ノ上、剰(あまつさえ)当家ノ養子トナリ、果テ信輔ニ当職与達(奪)アラハ、不及是非(ぜひにおよばぬ)次第也」とし、また信輔も「当家の再興になるならば」とやむなく賛成し、玄以にどのようにも秀吉次第、叡慮次第と返答した。
 この返答に秀吉は悦び、翌日、近衛父子と対面、「万事当家ノ異見ヲマモルヘキ由」を約束した。
 7月6日、秀吉から関白職を申し請けることを奏請された正親町天皇は、諸家へ勅問する。
 近衛からは所存はなく叡慮に任すとの返答が、二条家からは辞退あるべきにも及ばないとの返答がなされるが、ことはすでに決しており、正親町天皇は秀吉の奏請を受け入れ、7月11日、秀吉を関白に任じた。・・・
 秀吉を朝廷官位のなかに取り込もうとしていた正親町天皇にとって、この申し出は予測せぬものではなかったろうか。
 しかし、ここまで事が紛糾し、秀吉の介入がなされた段階では、それに抗することはできなかったのだろう。」(163~167)

⇒そういうことではなく、正親町天皇と近衛前久との間で、以前、信長を右大臣に任官させたけれど、その後それを返上され、散位になってしまった信長にその死後太政大臣を贈っているところ、秀吉が関白就任を望んでいるのであれば、その希望をかなえてやろうではないか、という合意ができており、後は、その線で、近衛信輔と二条昭実に同意させ、或いは諦めさせるための、前久の作・演出による、秀吉を主役とする勧進帳であった、というのが私の見立てです。
 ついでに、ですが、この頃まではともかく、秀吉の死後も含めたその後の玄以の行動を見るに、秀吉にしては極めて珍しいことなのではないかと思いますが、人の真価を見抜けないこともあった、という事実に驚きますね。(太田)

(続く)