太田述正コラム#12028(2021.5.19)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その20)>(2021.8.11公開)

 「1591<年>12月25日、秀吉は、関白職を甥の秀次に譲り、同日、来春3月の朝鮮への渡海を表明し、「唐入り」に踏み出した。
 秀吉は、<1592>年正月5日に発した「掟」のなかで「今度大明国へ御動座(ごどうざ)に付いて」と書き出したように、「御動座」の先は、朝鮮ではなく「大明国」であった。
 そして同月18日、秀吉は、「唐入り」にあたって異議なく日本軍が朝鮮を通ることを認めるよう、もし聞き入れないならば3月中に軍勢を壱岐・対馬に派遣し、4月には渡海させ朝鮮を「退治」すると朝鮮に申し送った。
 この要求を朝鮮王朝は、拒んだ。
 この朝鮮からの返事が秀吉のもとに届かないうちの3月26日、秀吉は、肥前名護屋に向けて出陣した。・・・
 5月6日、相次ぐ快進撃の報に接した秀吉は、北政所に対し、朝鮮の都を攻略するために軍勢を派遣したことを伝えると同時に、「から(唐)をも九月ころにはとり申すべし、九月のせつく(節句)の御ふく(服)は、からのみやこ(都)にてうけとり申すべく候」と、9月の節句は北京で迎えるつもりだと報じた。
 5月16日、清正から5月2日(実際には3日)に漢城に入城したとの報を受けた秀吉は、・・・18日、関白秀次宛に25ヵ条の「三国国割(さんごくくにわり)構想」を贈った。
 そこでは、関白秀次の明年正月か2月の出陣を命じ、自らは渡海し、「大明国」まで手中におさめるつもりであるとし、以下で秀次の出陣にあたってのさまざまな準備や嗜みを数ヵ条にわたって指示したあと、三国国割構想の詳細が述べられている。
 その19ヵ条目には、後陽成天皇を「大唐都」すなわち北京に移すこと、そのための「用意」をすること、明後年「行幸」のこと、北京に移ったときに都廻(まわり)の10ヵ国を後陽成天皇に進上すること、その国々において公家衆への知行を仰せつけられることが記されている。
 20ヵ条目には、「大唐関白」は秀次に譲り、都廻で100ヵ国を渡すこと、「日本関白」は豊臣秀保<(注45)>か宇喜多秀家<(注46)>を充てることが、21ヵ条目では「日本帝位」に若宮の良仁(かたひと)親王か皇弟の八条宮智仁親王を就けることを、22ヵ条目では、朝鮮には豊臣秀勝<(注47)>か宇喜多秀家を、九州には豊臣秀俊<(注48)>(のちの小早川秀秋)を、京都の御所と聚楽第には留守居を、朝鮮の留守居は宮部継潤<(注49)>(けいじゅん)を置くとした。・・・」(200~203)

 (注45)1579~1595年。「豊臣秀吉の姉・瑞龍院日秀(とも)の子で、後に豊臣秀長の婿養子となる。大和国の国主で大和大納言と呼ばれた秀長を継ぎ、官位が中納言であったことから、大和中納言(やまと ちゅうなごん)の通称で呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E4%BF%9D
 (注46)1572~1655年。「備前国岡山城(岡山県岡山市北区)主の宇喜多直家の次男として生まれた。・・・権中納言<。>・・・元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗った。秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、・・・1588年・・・以前に秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室とする。このため、外様ではあるが、秀吉の一門衆としての扱いを受けることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%A7%80%E5%AE%B6
 (注47)1569~1592年。「豊臣秀吉の姉である瑞龍院日秀と三好一路の次男で、秀次の弟<にして>、秀保の兄。・・・正三位・中納言<。>・・・<没年ないしその翌年に>江の間に完子<(さだこ)>が産まれた。完子は、江の姉淀殿に養育され、・・・<更に、江の再婚相手の>徳川秀忠の養女となり、・・・藤原氏摂関家九条流の九条家の当主九条幸家正室となり、九条道房が生まれた。さらに<江>と秀忠の外孫にあたる廉貞院は九条道房正室になり、待姫が生まれた。また待姫は九条道房の養子九条兼晴の正室となり、九条輔実が生まれた。その後、九条兼晴から数えて9代後の当主九条道孝の娘九条節子が大正天皇に嫁いだため、昭和天皇以降の天皇家には秀勝と崇源院<(江)>、さらには徳川秀忠の流れを含んでいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%8B%9D
 (注48)1582~1602年。「木下家定(高台院の兄)の五男として近江国の長浜に生まれる。・・・権中納言<。>・・・叔父である羽柴秀吉の養子になり、幼少より高台院に育てられた。元服して木下秀俊、のちに羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗った。・・・
 1593年・・・、秀吉に実子・豊臣秀頼が生まれたことにより、秀吉幕下の黒田孝高から小早川隆景に「秀俊を毛利輝元の養子に貰い受けてはどうか」との話が持ちかけられる。これを聞いた隆景は、弟・穂井田元清の嫡男である毛利秀元を毛利家の跡継ぎとして秀吉に紹介した上で、秀俊を自身の小早川家の養子に貰い受けたいと申し出て認められる。・・・
 朝鮮在陣中に名乗りを秀俊から秀秋へ改名している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E7%A7%80%E7%A7%8B
 (注49)1528?~1599年。「桓武平氏土肥氏の後裔で・・・比叡山で修行をしたのち僧侶となったが、故郷<近江国浅井郡>宮部<村>に戻り、近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕えるようになる<も、>・・・秀吉の調略に応じてその与力となった<。>・・・隠居した<後も>秀吉からの信任は厚く、晩年は秀吉の御伽衆として、秀吉の相談相手を務めながらも、秀吉重臣として政務にも関わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E9%83%A8%E7%B6%99%E6%BD%A4

⇒このあたりで、正室のねねの実家が木下氏であっただけでなく、秀吉が生まれた当時姓を名乗っていなかった可能性はあるけれど、秀吉の家も、全く別系統ではあれ、たまたま同じ木下氏、で、しかも、単なる農家ではなく土豪であったらしいことを知ることになりました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E6%B0%8F
 どうやら、秀吉、それほど下賤の出自ではなかったのかもしれませんね。
 もう一つ。歴代天皇にしかるべき人が就いてきたことが日本で天皇制が続いてきた理由の一つであるところ、それは、その時その時の最高権力者ないしそのゆかりの「優秀」なDNAを注入する努力を、直接、或いは公家達を通じて、行ってきた成果でもあることを、「注47」からも、改めて痛感させられた次第です。(太田)

(続く)