太田述正コラム#12030(2021.5.20)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その21)>(2021.8.12公開)

 「関白秀次へ「三国国割構想」を贈ったのと同じ日、秀吉は所司代の前田玄以に対し・・・明後年に天皇を「大明国」へ「相渡」す<、と、伝えている。>・・・
 <これを受け、玄以は、>6月7日、・・・ほぼすべての公家にたいし、「勅定(ちょくじょう)」として後陽成天皇の「太唐」への行幸のために「行幸之儀式」などについての「諸家之記録」を提出し、「叡覧」に備えるよう・・・触れ<の形で>・・・指示した。・・・
 <この触れには>民部卿法印 玄以(花押)<と書かれ、日付の後に、>・・・伏見宮邦房(くにのぶ)親王以下44名の下に・・・それを承認したことを示す花押が、近衛信輔等5人を除き据えられており、この命令が厳格にに触れられたことが窺える。

⇒近衛信輔が承認していない、ということは、その父、近衛前久(~1612年)の意思でもあって、近衛家として、秀吉の天皇の入唐に事実上異議申し立てをした、ということではないでしょうか。(太田)

 玄以の<この>触れに「行幸」の儀式の調査が「勅定」として命じられたとあることからも、天皇の耳にも「太唐」移徙の報は伝えられている。
 後陽成天皇にとっては、青天の霹靂であったろう。・・・
 この「太唐」移徙を命じる秀吉に対して、後陽成天皇は、・・・女房奉書で・・・やんわりと返答する。・・・
 内容は、高麗国(朝鮮)への下向は、嶮路波濤を凌がねばならず、勿体ないことである、諸卒を遣わしても事足りるのではないか、朝廷のためにも天下のためにも高麗への発足を思い止まるのがよかろう、勝を千里に決して、このたびのことを思い止まれれば、別して悦ばしく思う、なお勅使が申すであろう、というものである。
 後陽成天皇は、この勅書で、秀吉の朝鮮渡海を思い止まらせることで、秀吉の三国国割構想、なかでも天皇の北京移徙をやんわり拒否したのである。・・・
 <さて、>海上では5月7日<、および、>29日・・・海戦で日本側が敗れ、朝鮮南部での制海権を奪われた。・・・
 <そこで、自らの>渡海中止を決めた秀吉は、6月3日、大谷吉継・増田(ました)長盛・石田三成らの奉行衆を朝鮮に派遣し、朝鮮にいた諸将へ明への侵攻を命じた。・・・
 <結局、>7月15日、名護屋にいた秀吉は、明への侵攻を命じた6月3日の軍令を撤回し、朝鮮の安定支配を優先するよう命じる。・・・
 この直後、秀吉の母、大政所の危篤の報が秀吉のもとに届く。
 7月22日、秀吉は急遽、名護屋を離れ大坂へと戻った。
 7月29日に大坂に着くが、その時には大政所は聚楽第で死去していた。・・・
 1592<年>9月初め、後陽成天皇は、大坂にいた秀吉に再度の名護屋下向を延期するよう<に、との白地?>勅書を<持たせて、>菊亭晴末<(注50)>・勧修寺晴豊<(前出)>・久我敦通<(注51)>等を勅使として・・・送った。・・・

 (注50)今出川晴季(1539~1617年)。「1560年・・・、子の武田信玄に甲斐国を追放され駿河国と京を行き来していた武田信虎の末女を娶った。・・・1579年・・・内大臣、・・・1585年・・・には従一位・右大臣にまで昇る。
 織田信長亡き後、天下人となった羽柴秀吉・・・に関白任官を持ちかけて朝廷との調整役を務めたのが晴季で、これにより晴季は豊臣政権と密接な関係を築いて朝廷内で重きをなした。
 しかし、関白・豊臣秀次に娘の一の台を嫁がせていたため、・・・1595年・・・8月に秀次が謀反の疑いをかけられて高野山で自害を命じられ、一の台をはじめとする秀次の一族妻妾が処刑されると、晴季もこれに連座して越後国に流罪となった。
 翌・・・1596年・・・、赦されて帰京し、秀吉の死後<1599>年12月・・・には右大臣に還補」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%87%BA%E5%B7%9D%E6%99%B4%E5%AD%A3
 「菊亭家は、清華家の家格をもつ公家。今出川家ともいった。藤原北家閑院流、西園寺家の庶流。家業は琵琶。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E4%BA%AD%E5%AE%B6
 (注51)1565~1625年。「1582年・・・に権大納言、・・・1587年・・・に従二位となる。
 ・・・1595年・・・より武家伝奏となり、朝廷と豊臣氏との取り次ぎに活躍。豊臣家からも信頼を受けて、しばしば加増を受けている。
 ・・・1599年・・・、勾当内侍との密通の風聞がたったことで、子の通世とともに後陽成天皇の勅勘を被り、京都から追放されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E6%95%A6%E9%80%9A

⇒「注50」、「注51」を踏まえれば、後陽成天皇によって、(秀吉存命中に、)秀吉にひどい目に遭った晴末は労われ、秀吉のおかげでいい思いだけをした敦通は罰せられた、ということでしょう。(太田)

 <実は、>三人の使者が大坂に下る時点では、勅書・院御文の内容は最終的には決まっておらず、前田玄以との相談のうえで内容が確定したのである。・・・
 <そのおかげで、>9日朝、秀吉の見参があ<ると>、秀吉は、勅書・院御文をみ「御機嫌不斜(ななめならず)候」であった<のだ>。・・・」(203~206、208~211)

⇒正親町上皇(~1593年)は、「1586年・・・、孫の和仁親王(後陽成天皇)に譲位して隠退し<てい>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
、つまりは、治天の君ではなく、後陽成天皇が親政をしていた中、わざわざ、後陽成天皇の勅書に自らの院御文を付けて、秀吉に届けさせた、ということのようですから、天皇家としては、朝鮮半島で戦線膠着状態にあることも把握した上で、秀吉の名護屋下向どころか、半島への渡海はもちろんのこと、秀吉に半島からの撤兵を求めたい、というのが本音であったけれど、秀吉を怒らせないぎりぎりの落としどころを玄以と相談して見極めた上で、そのラインで院御文と勅書を書け、と、言い含めて、勅使達を送り出したのでしょうね。(太田)

(続く)