太田述正コラム#12032(2021.5.21)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その22)>(2021.8.13公開)

 「この上方滞在の間にあたる8月30日に木下吉隆<(注52)>(よしたか)が在陣中の吉川広家に宛てた書状のなかで、秀吉が来春渡海し「高麗の御国わり」を行うとともに、「大明国へ御動座の儀は、まず相延べらるべき由」と報じたこと、さらに年も押し詰まった12月28日に秀吉が自ら吉川広家の留守居に宛てた朱印状のなかで、「来三月高麗に至り御渡海なされ、御仕置きなど仰せつけられ、早速御帰朝たるべく候」と述べているように、来春3月に渡海するものの、それは朝鮮の仕置きのためであり、明へは行かず、帰国するというのである。

 (注52)?~1598年。「字は半介。・・・出身、前半生については不明である。木下姓を名乗ってはいるが、諸説あって豊臣秀吉の親族であったかどうか定かでない。・・・
 はじめ右筆として秀吉に仕え、・・・1583年・・・頃から秀吉の発給する朱印状の副状の発給をしたり、奏者として活躍したと考えられている。秀吉が発したたくさんの書状に、木下半介の連署が残っている。
 文禄の役<の>際には馬廻衆の組頭として、1,500人の兵を率いて名護屋城に控えた。・・・1593年・・・9月、大友吉統の改易に伴い、その旧領の内、豊後国の大野郡・直入郡・大分郡・海士辺郡に2万5千石を与えられ、同月13日にさらに300石加増された。10月3日には従五位下・大膳大夫に任ぜられ、諸侯に列せられた。・・・1595年・・・7月1日にはさらに1万石を加増された。
 同年8月に豊臣秀次が失脚すると、秀次の軟禁と監視役を命ぜられ、更に高野山への秀次の護送役を務めるが、高野山に着いた後に吉隆自身も秀次の謀反の一味であったとされて、突如改易、島津義弘に預けられ薩摩国坊津に流刑された。
 ・・・1598年・・・、流刑先にて自殺したとも、秀吉の命をうけた島津義久によって殺されたとも言う。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%90%89%E9%9A%86

 この時点で、秀吉は、「唐入り」を明確に放棄しており、当然のことながら三国国割構想も瓦解したことになる。・・・

⇒秀吉が、「「唐入り」を明確に放棄しており、当然のことながら三国国割構想も瓦解した」ならば、1597年の慶長の役を起こしたことすら説明できなくなると思うのですが・・。(太田)

 1592<年>末、明軍が鴨緑江を越えて朝鮮に入り、<1593>年正月6日から8日にかけて朝鮮政府軍・義兵をも含め、小西行長<(注53)>等が守る平壌を攻めた。

 (注53)1558~1600年。「堺の商人・小西隆佐の次男として京都で生まれた。・・・商売のために度々宇喜多直家の元を訪れていたが、その際に直家に才能を見出されて抜擢されて武士となり、家臣として仕えた。織田氏の家臣・羽柴秀吉が三木城攻めを行っている際、直家から使者として秀吉の下へ使わされた。この時、秀吉からその才知を気に入られ、臣下となる。・・・
 1584年・・・には高山右近の後押しもあって洗礼を受けキリシタンとなる。・・・
 1587年・・・の九州平定、・・・1588年・・・の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、肥後国の南半国宇土、益城、八代の三郡20万石あまりを与えられた。・・・
 天草五人衆と・・・戦になり(天草国人一揆)、これを加藤清正らとともに平定。天草1万石あまりも所領とした。・・・
 このころ天草は人口3万の2/3にあたる2万3千がキリシタンであり・・・イエズス会の活動に行長は援助を与え保護した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7

 日本軍は、その攻撃をどうにか凌いだものの、その夜、平壌を放棄し、漢城へと撤退した。
 正月27日、日本軍は、追撃してきた明軍と漢城の北の碧蹄館(ビヨクジエグアン)で激突し、この戦いには勝利するが、もはや明軍を追撃する余裕なく、漢城に軍を引いた。
 平壌撤退の報に接した秀吉は、渡海延期を決断せざるを得なくなり、2月18日、宇喜多秀家を現地の「大将」とし、名護屋の秀吉からの指示を待たずに、現地で時々の戦況に応じた判断をまかせることにした。・・・
 朝鮮側の講和反対にもかかわらず、日本と明との講和交渉が、小西行長と沈惟敬<(注54)>(しんいけい)とのあいだで始まった。」(212、214)

 (注54)シェン ウェイ チン([1537~1599年])。「[父親と共に日本との交易の仕事もやっていたこともあり、日本語に堪能だった。]文禄の役(1592)の際,・・・李如松の配下になる。・・・1592・・・ 年9月平壌で小西行長と会い和議を進めたが,翌<1593>年1月和議の進捗中に・・・李如松が行長を襲撃,行長は大敗した。同3月碧蹄館の戦いののち再び竜山で会見,・・・小西行長らと謀り,・・・豊臣秀吉の降伏書簡を偽作し,・・・偽の講和使(内藤如安)を明皇帝に遣す。その結果,・・・1596・・・年,明の正式な冊封使(豊臣秀吉を日本国王に封じることを伝える使節)・・・<の>正使楊邦享・・・の副使として来日,・・・豊臣秀吉に会見したが,秀吉は明の国書に怒り朝鮮再征を決意。惟敬は帰国し・・・明皇帝にいつわって・・・和議<の>・・・成立を報告し・・・たが,慶長の役でそれが暴露し、再び朝鮮に入り・・・行長と・・・講和を画策し,やがて日明両国を欺瞞していたことがあらわれ,・・・<1598>年,明朝に逮捕され,斬刑に処された。・・・<なお、>加藤清正は終始<、行長と惟敬の「交渉」>に反対していた。>・・・」
https://kotobank.jp/word/%E6%B2%88%E6%83%9F%E6%95%AC-81316
https://baike.baidu.com/item/%E6%B2%88%E6%83%9F%E6%95%AC ([]内)
 李如松(りじょしょう。1549~1598年)は、「遼東安定に多大な功のあった李成梁の長子。朝鮮からの移民の末裔<。>・・・文禄・慶長の役では防海禦倭総兵官として、朝鮮への援軍を率いた。朝鮮に入ると、・・・1593年・・・1月に平壌城に拠る小西行長の軍勢を急襲して落城寸前まで追い込み、包囲を一部解いて自主撤退を勧告し、平壌を回復した。更に李如松は撤退する小西軍を追撃したが、漢城へ進撃する途上での碧蹄館の戦いで小早川隆景、立花宗茂らの軍勢に敗れ、平壌に撤退した。その後、積極的な攻勢に出ることはなく、和議による事態収拾を図った。9月には朝鮮軍務経略の宋応昌と共に李如松も帰国した。慶長の役には参戦していない。・・・
 李如松の平壌城攻撃で焼死・水死した朝鮮人が1万人位いた<とされている。また、>・・・平壌城の戦闘で李如松が指揮した明軍の戦果とする日本軍の切り落とされた頭の半数は、朝鮮の民衆であり、李如松が平壌城を攻撃した際に、朝鮮の民衆の頭を切り落とした後、前髪を刈り取り日本軍の頭に偽装して戦果をごまかしたことは、明軍では公然の秘密だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%A6%82%E6%9D%BE
 宋応昌(1536~1606年)は、1564年郷試合格、1565年進士、文禄の役の間に援朝明軍の最高統帥を務めた。
http://human.kanagawa-u.ac.jp/gakkai/publ/pdf/no188/18802.pdf
 「九三・・・年三月、宋応昌は配下の兵をソウルに潜入させ、龍山にある倭軍の兵糧倉二三ヵ所を焼討ちした・・・。
 ・・・この龍山倉は漢江に面した地点にあり、もともと朝鮮国家の租税米の蔵所であった。ソウル陥落後、倭軍はその租税米を兵糧にして<おり、>・・・一万四〇〇〇石、兵力全体の二ヵ月分の兵糧米が蓄えられていた・・・。
 ここに至って、倭軍は和議に応じないわけにはいかなくなった。」
http://ktymtskz.my.coocan.jp/D/kor4.htm

⇒明軍は、宋応昌はともかくとして、李如松と沈惟敬がひど過ぎます。
 このような輩を起用しなければならなかったというのですから、明は既に滅亡寸前だったという思いを禁じ得ません。
 にもかかわらず、こんな明軍に、日本軍が手こずったというのですから、私は、秀吉の真意を見抜いていたキリスト教宣教師達からの「指示」を受けて、小西行長が、秀吉の明征服が実現しないように立ち廻っていたからではないか、という気がしてきました。
 なお、藤井が、この場面で、宋応昌どころか、李如松にすら言及していないことは、私には理解できません。(太田)

(続く)