太田述正コラム#12034(2021.5.22)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その23)>(2021.8.14公開)

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[秀吉唐入りの背景]

 「1581年にポルトガルがスペインに併合され・・・同君連合・・・<にな>ると<両国が競っていた>状況は一挙に変化<し、>・・・この<新しい>国は日の沈まぬ帝国となった。・・・
<漢の時代から支那の産品として有名だった>生糸はイエズス会にとって<も>貴重な産品であった。「日本のキリスト教徒とイエズス会は一本の糸「<支那>からの生糸の輸入」に依存していた・・・。・・・
 1582年ヴァリニャーノのマカオ発のフィリピン総督宛の手紙は次のように言う。
 (東洋における)征服事業は霊的な面だけではなく、それに劣らず陛下の王国の世俗的な進展にとっても益するものである。それらの征服事業の中で最大のものの一つは、閣下のすぐ近くにある、このシナを征服することである。・・・これは主や国王陛下への奉仕にとって非常に重要な行為なのであるが、その事業に関して手にすべき真の計画なり、情報なりを提供できるような者はほとんどいない。そこで、私が当地で得た経験をもとに、その件のためにわかる若干の重要な事柄について、閣下と相談することが可能ならばとても嬉しい。
 <また、>1583年・・・フィリピンのマニラ司教フライ・ドミンゴ・デ・ダラサールは、「<支那>の統治者たちが福音の宣布を妨害しているので、陛下は武装してかの王国に攻め入ることのできる正当な権利を有する」と、スペイン国王フェリペ2世<(フィリップ2世)>に説いている。
 その主張は、スペインのわずかな鉄砲隊でも何百人もの<支那>人を滅ぼすのに十分だし、<支那>からごく近くの日本人は<支那>人の仇敵だから、スペイン人が<支那>に攻め入るときには非常な敵意を燃やして加わるだろう、この点、日本人に対し在日イエズス会士の命令に従って間違いなく行動を起こすよう指令を送ればよい」と言うのであった。
 <かつ>また、かつてイエズス会の日本布教長という地位にあったフランシスコ・カブラルも、1584年・・・スペイン国王に「<支那>王国の全土の年貢徴収の台帳をすでにスペイン語に翻訳させ、1億5000万人の年貢納入者を確かめる仕事を完了していること、<支那>国民は国境守備隊を除けばすべて非武装の国民であり、国王だけが倉庫に武器を所有していること、<支那>全土に青銅の弾丸は一つもないこと、政治が過酷なためすでに謀反が起こる情勢であること、日本駐在のイエズス会パードレたちがたやすく日本人キリスト教徒2,3千の、陸海の戦闘に実に勇敢な兵隊を参加させることができること」、かくすればスペイン王は短期間に世界の帝王になれるなどと書き送っている。

⇒以上は、「フィリップ2世の帝国」シリーズ(コラム#7132、7134、7136、7138)中のコラム#7138でも記した話だが、異なった挿話群が紹介されている。
 なお、支那(明)に係るこのような状況分析は、彼らから、信長や秀吉にも明かされていたことだろう。(太田)

 <ところで、>秀吉も<支那>へ食指を伸ばしていた。
 秀吉は1585年・・・9月3日、家臣である一柳市介に宛てた朱印状の一節において、秀吉、日本国のことは申すに及ばず、唐国まで仰せつけられ候こころに候<、>と述べ<支那>大陸侵寇の意図を明らかにしている。
 コエリュは1586年・・・5月8日に他の司祭ら4名、ほかに随員を伴って大阪城に赴き秀吉と歓談したが秀吉は、日本国内の統治が実現したうえは、<支那>とシナを征服することに従事したいこと、その準備として2千隻の船舶を建造する準備をしているが、伴天連らに対して、十分に艤装した2隻の大型ナウ<(注56)>を斡旋してもらいたいこと、それらの代価は言うまでもないこと<、>提供されるポルトガル航海士達は熟練の人々であるべきで、彼らには俸禄及び銀をとらせるであろうこと、などと語った・・・。

 (注56)「キャラック船、カラック船(英語: Carrack)は15世紀に地中海で開発された帆船。大航海時代を代表する船種のひとつ。この型の船を、スペインではナオ(Nao)あるいはカラーカ(Carraca)、ポルトガルではナウ(Nau)と呼んだ。・・・
 遠洋航海を前提に開発されたヨーロッパでは初の船種であり、大西洋の高波でも船体の安定を保つだけの巨体と、大量輸送に適した広い船倉を持つ。
 全長は30mから60m、全長と全幅の比は3:1とずんぐりしている。排水量は200トンから1500トンとサイズには個体差が大きい。通常は3本ないし4本のマストを備え、丸みを帯びた船体と特徴的な複層式の船首楼、船尾楼を有する。
 北欧系のコグ船と南欧系のキャラベル船の長所を受け継ぎ、3本のマストのうちフォア・メインマストに横帆、ミズンマストに縦帆と異なった種類の帆を巧妙に組み合わせた艤装を持ち、自在に張り替えたり数を増減させたりすることが容易であるため、高い帆走能力を持つ。後に船体が大型化すると、最後尾にジガーマストが追加されて4本マストのものも登場するようになる。16世紀には発展系としてガレオン船が開発された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E8%88%B9

 秀吉はそれに引き続いて<、>また万一予がこの事業(の間)に死ぬことがあろうとも、予はなんら悔いるところはないであろう。なぜならば先に申し述べたように、予は後世に名を残し、日本の統治者にして古来いまだかつて企て及ばなかったことをあえてせん(と欲する)のみであるからだ。
 そしてもしこの計画が成功しシナ人が予に屈し、服従を表明するにいたっても、予はシナに何も求めず、予自身シナには居住せず、彼らの領土を奪うつもりはない(シナを征服した)暁にはその地のいたるところにキリシタンの教会を建てさせ、シナ人は悉くキリシタンになるよう命ずるであろう。その上で予は日本に帰るつもりである・・・(フロイス『日本史』)<、>と述べており、何のための<支那>征服であるかは分明でない。

⇒秀吉が、宣教師達に、自分の唐入りについて、真意を明かすはずもなく、また、明かしたとて、日蓮主義的なものやその根底にある人間主義、は、宣教師達には到底理解できなかったことだろう。(太田)

 要するに日本が明国に攻め入るから、ポルトガル/スペインはこれを援助して欲しい旨を述べているのである。

⇒秀吉は、支那情報を宣教師達から得ていて、引き続き情報を得たいのと、彼らに欧州製等の船や武器の調達に便宜を図ってもらいたいが故に、唐入りについて、彼らに語ったのだろうし、キリシタンの小西行長を、当初、唐入りの司令官にした理由も、おおよそ想像できるというのものだ。
 当然、行長にも、秀吉は唐入りの真意は伝えていなかったはずだが、秀吉が副司令官に日蓮宗信徒の加藤清正
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3
を就けた理由は、秀吉の真意を共有していた清正に、小西を監視させるためだったろう。(太田)

 その後ポルトガル/スペイン帝国とイエズス会の動きはどのようであったか。
 1585年・・・、当時有馬にいた準管区長のコエリュは同年3月3日付けのローマ宛の書簡で「兵士、弾薬、大砲、兵士のために必要な食料、及び1,2年分の食料購入用の金銭が十分に備わったフラガータ船を3~4艘、当地日本に派遣してもらいたい」と記し、マニラ経由でのスペイン軍勢の日本派兵を要求している。この書簡は長崎の防衛のために書かれたものであるけれどもイエズス会とポルトガル国王でもあるフェリペ2世との軍事連携を明らかに念頭に置いた内容となっている。
 そしてコエリュは、日本のキリスト教徒の領主の援助を得て、この海岸全体を支配したいと明言し<たば>かりか、「もしも、国王陛下の援助で、日本66ヶ国すべてが改宗するに至れば、フェリペ国王は、日本人のように好戦的で怜悧な兵隊を得て、一層容易に<支那>征服を成就することができるであろう」と書き添えていた。
 しかもフィリピン総督サンティアゴ・デ・ベーラは1587年・・・メキシコ副王に対し、平戸王(松浦氏か)は、スペイン国王陛下から要請ありしだい、友人のドン・アウグスチン(小西行長)とともに、十分に武装した6000の日本兵を、わずかな傭兵料で、ブルネイ、シャム、モルッカ、<支那>にも差し向ける用意があると正式に言明した、という日本船船長の話を報じている。また平戸にかつて漂着した経験のあるアウグスチノ会士の一人フライ・フランシスコ・マンリーケも1588年・・・にマカオから、日本のキリスト教徒の王は4人に過ぎないが、10万以上の兵を動かすことができ、日本兵は非常に勇敢にして大胆かつ残忍で、<支那>人に恐れられているから、彼らがスペイン軍の指揮下に入れば<支那>の占領はたやすい、とスペイン国王に報告している。

⇒小西行長が宣教師達の指揮下にあったとの私の指摘が裏付けられるのではないか。(太田)

 要するにポルトガル/スペインは秀吉とは逆に自分たちが主導して日本勢を援兵として使うことを目論んでいた。その裏には倭寇の船団などを含む日本側の様々な方面から、軍隊提供の意向が述べられていたことも想像される。
 明国のへの侵攻はポルトガル/スペインと日本とがそれぞれの思惑から計画されたものであるが、東南アジアの政治・軍事情勢の中に適切に位置づけられるべきものである。即ちポルトガル/スペインが大陸侵攻に成功した場合の日本はどうなるか。秀吉の<支那>侵攻策はそうした分析が政府の中に働いていたのかどうかという視点から再検討されるべきではあるまいか。

⇒まさに、その再検討を行った結果を、次の次のオフ会「講演」原稿で明らかにする予定だ。(太田)

 ポルトガル/スペインによるこうした<支那>侵攻は・・・理由から現実のものとならなかった。日本のみが1592年(文禄元年)と1597年(慶長2年)の2回にわたって侵攻した。日本の侵攻は既述のように積極的な目的を欠いていたため、北京での<(?(太田))>講和会議において秀吉は<支那>の皇女を日本の皇妃に迎えるなどと<支那>に対する従属の裏返しのような条件をつけている。」(堤淳一(注55))
http://www.mclaw.jp/column/tsutsumi/column027.html

 (注55)1941年~。中大法卒、弁護士。「日弁連常務理事、東京都弁護士協同組合理事長、全国弁護士協同組合理事長などを務める」
https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%A0%A4%E6%B7%B3%E4%B8%80_000000000688936/biography/
 堤による引用それぞれの信頼性チェックは行っていないが、あしからず。(太田)

⇒堤も、結局は秀吉耄碌論を採ってしまっているようだが、私見は全く異なることはご承知の通りだ。(太田)
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(続く)