太田述正コラム#12036(2021.5.23)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その24)>(2021.8.15公開)

 「・・・4月末、明からの「勅使」が派遣されるとの報が名護屋に届いた。
 明側は、漢城の奪還と「講和」の可能性を探り、日本側は、明からの降伏の使節と期待も含めそれを「大明より御詫言(わびごと)」のための使節と読み替えようとした。
 5月1日、秀吉は、朝鮮在陣の諸将に対し長陣をねぎらうとともに、晋州城の攻略、さらに全羅道(チョルラド)(日本側史料では赤国)への侵攻を命じた。
 ここに秀吉が、朝鮮半島の南端部の確保を目指していたことがみてとれよう。
 逆にいえば、秀吉は、この時点で「唐」明はおろか朝鮮全土をその支配下に置くことを断念していたのである。・・・

⇒そうは思わない、と、繰り返しておきましょう。(太田)

 そして、5月15日、小西行長に伴われた「明使」が名護屋に到着した。・・・
 5月23日、秀吉は、明の「勅使」を引見する。
 そして翌日には、明の「勅使」は朝鮮に戻っていった。
 ついで6月28日、秀吉は、朝鮮に渡海していた石田三成・増田長盛・大谷吉継と小西行長に対し「大明日本和平条件」を送った。
 その内容は、
一 明の皇女を日本天皇の后妃とすること、
二 日本と明の貿易を再開すること、
三 明と日本の大官との間で誓紙を交わすこと、
四 和平が成立するならば、朝鮮を赦し、漢城近辺の四道を朝鮮国王に遣わすこと、
五 朝鮮の王子と大臣一両人を質として渡海させること、
六 生け捕った王子二人を沈惟敬に引き渡すこと、
七 朝鮮国王の権臣が「累世違却」なしとの誓紙を提出することを指示した。
 ここで注目したいのは、この講和条件を作成するにあたって、秀吉は、後陽成天皇の同意を求めた<ことだ。>・・・
 形式的外交権が天皇の側にあることの証左であるとする評価もあるが、より直接的には、かつて朝鮮使節の参内を画策したときと同様、この外交交渉に天皇・朝廷を巻き込もうとする秀吉の戦略のなせるものであったといえよう。・・・

⇒それはその通りなのですが、天皇家(故正親町上皇/後陽成天皇)と摂家筆頭の近衛家(近衛前久/信輔)が「天皇・朝廷を巻き込もうとする秀吉の戦略」に抵抗を続けてきたのを、停戦/講和に彼らをコミットさせることで、どうせ、停戦/講和が明/朝鮮側によって破られることを見通していた秀吉が、その後の唐入り再開に彼らがコミットせざるを得ない状況を創り出すことを狙ったものだった、というのが私の見方です。(太田)

 <1593>年2月10日、後陽成天皇は秀吉に宛て勅書を書いた。・・・
 近衛家の当主である・・・近衛信輔<(注57)>が朝鮮へ下向することを聞き及んだ、もし本当であれば、摂家の一跡も断絶となっては如何と思い、朝鮮下向を押し止められればしかるべきであろう。

 (注57)1565~1614年「1577年・・・、元服。加冠の役を務めたのが織田信長で、信長から一字を賜り信基と名乗る。[のちに信輔(のぶすけ)と改め、そして30代なかばで信尹と名のった。]
 1592年・・・正月に左大臣を辞した。・・・「関白が豊臣氏の世襲になるならばせめて内覧任命を希望したい」<と述べたとされる。>・・・
 [1601年左大臣に・・・還任(げんにん)し、・・・05年・・・関白・氏長者となり、三宮に準じられた。・・・
 大徳寺の春屋宗園に参禅し,古渓宗陳や沢庵宗彭らと親交があった。]
 書、和歌、連歌、絵画、音曲諸芸に優れた才能を示した。特に書道は青蓮院流を学び、更にこれを発展させて一派を形成し、近衛流、または三藐院流と称される。・・・本阿弥光悦、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」と後世、能書を称えられた。・・・
 <正室がおらず、> 生後すぐの死去も含めて、複数の子がいた<が、いずれも庶出であり、女子しか伝わっていない。>薨去<後、>・・・後陽成天皇<は、自分の>第4皇子で信尹の異腹の妹・中和門院前子の産んだ二宮を後継に選び、近衛信尋を名乗り継がせ、<信輔改め信尹>の娘(母は家女房)を娶らせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%B9
https://kotobank.jp/word/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%B9-16243 ([]内)

 おどろいて、この書を書いた、というのである。・・・
 それを受けた秀吉は、信輔に京都への帰還を命じた。
 翌・・・1594<年>4月、近衛信輔<は、>秀吉の勘気に触れ<後陽成天皇によって、>薩摩に配流された。・・・
 信輔の日常の行為・行動が目に余り「公家」らしからぬことがこの処分に繋がったと思われる。・・・」(215~217、221)

⇒信輔は、秀吉がなくなった(1598年)頃に、信尹に最終的改名をしていますが、これは、秀吉の厄を落とした、ということではないでしょうか。
 いずれにせよ、彼は、信長にもらった「信」の字を死ぬまで大切にしたわけであり、信長は尊敬し秀吉は軽蔑していた、と、私は見ています。
 もとよりそれは、出自による差別などではなく、信長は、秀吉と違って、「天皇・朝廷を巻き込もうと」しなかったからである、と。
 また、信輔の朝鮮下向の試みは、そんな秀吉に抵抗はしつつも、秀吉との対決は避けたところの、後陽成天皇、と、父近衛前久、へのあてつけ、抗議であった、(正室を娶らず、嫡子を残さなかったこともそのためだった、)とも。(太田)

(続く)