太田述正コラム#12038(2021.5.24)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その25)>(2021.8.16公開)

 「秀次が関白となったことで、天皇の意志を取り次ぐのは関白秀次の任務となり、秀吉が思うに任せぬことも出てきた。
 また秀次が関白になった当初は、朝鮮出兵にあたって人掃令<(注58)>(ひとばらいれい)を出し、全国の家数・人数の調査を行ったり、秀吉の段階で始まった全国の石高を調査するための御前帳<(注59)>(ごぜんちょう)の集約を、秀次のもとで行うなど、豊臣政権を担う役割を果たしていたが、秀頼の誕生を契機に、秀吉との関係はじょじょに悪化していく。・・・

 (注58)「1592年・・・に関白豊臣秀次の名で出された朝鮮出兵のための法令。人別改めとも。
 全国の戸口調査を命じ、一村単位の家数、人数、男女、老若、職業などを明記した書類を作成して提出させたもの。目的は豊臣秀吉の文禄・慶長の役による、朝鮮出兵のための兵力把握や人夫の動員可能数の把握と言われているが、結果として兵農分離の一因ともなった。そのため、兵農分離の一連の流れと朝鮮出兵の流れの両方として評価されている。
 史料の吉川家文書には1591年(天正19年)と記されているが、最近の研究においてはこの日付には否定的で翌年の1592年(文禄元年)の誤りではないかとする説が有力である。また、この1591年に豊臣秀吉によって出された身分統制令の中にも人掃令と共通する項目があり、その方針の更なる徹底を図ったのが翌年の人掃令発令の意図とする見方もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%8E%83%E4%BB%A4
 「身分統制令は、・・・1591年・・・に豊臣秀吉が発した3ヶ条の法令。その内容は、侍(さむらい)、中間(ちゅうげん)、小者(こもの)ら武家奉公人が百姓・町人になること、百姓が耕地を放棄して商いや日雇いに従事すること、逃亡した奉公人をほかの武家が召抱えることなどを禁じたもので、これらに違反した場合は成敗するという。この侍は若党(わかとう)のこと。文禄・慶長の役を控えて武家奉公人と年貢を確保する意図があったとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BA%AB%E5%88%86%E7%B5%B1%E5%88%B6%E4%BB%A4
 (注59)「一五九一<年>、豊臣秀吉が、朝廷に献納すると称して作成させた全国の検地帳。・・・検地によって定められた石高(朱印高)を郡―国ごとに集計し・・・たものである。・・・
 国絵図<も作成された。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E5%89%8D%E5%B8%B3-1166418
 「国絵図<は、>・・・一国単位の絵図。・・・それは日本全土を国郡制の枠組みによって掌握する手段であり,同時にきたるべき〈唐(から)入り(朝鮮侵略)〉に向けての国内総動員体制づくりの一環であった。・・・国絵図が実際に徴収されたことは確実だが,現在までのところこの天正の国絵図は発見されていない。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E7%B5%B5%E5%9B%B3-55697

 <1595>年7月3日、秀吉は、・・・8日、秀次を伏見に呼び出し、関白職を剥奪し、剃髪させ高野山に追放した。
 そして、・・・15日に秀次に死を命じ自刃させた。
 後陽成天皇へは、追放が決まった8日、・・・追放する、と伝えてきた。
 それに対し後陽成天皇はなんの行動もとれなかった。・・・
 <また、>この秀次追放と連動したものかは明らかではないが、7月25日、秀吉から・・・これまで伝奏を務めていた右大臣菊亭<(今出川)>晴末を「色々とゝかさる事につき」越後の国へ遠流するとの通告があ・・・<った。>

⇒「関白・豊臣秀次に娘の一の台を嫁がせていたため、・・・一の台をはじめとする秀次の一族妻妾が処刑されると、晴季もこれに連座して越後国に流罪となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%87%BA%E5%B7%9D%E6%99%B4%E5%AD%A3 前掲
というのが通説
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8A%E5%87%BA%E5%B7%9D%E6%99%B4%E5%AD%A3-15514
である以上、藤井は、連座(連動)と言い切れない理由を説明すべきでした。
 私は、連座(連動)説に立っていますが、その理由は、晴季が、秀次の姻族であったことに加えて、伝奏であったこと、つまりは、秀吉の意向→秀次/晴季→後陽成天皇、という経路における、秀次と連帯で「職務懈怠」を咎められた、という認識です。
 では、晴季の場合、どうして、秀次と違って、自刃ではなく、遠流でしかも翌年(散位ながら)ゆるされる(上掲)、という、著しく穏便な「処分」で済んだのでしょうか。
 それは、秀次は、公の職務懈怠に加え、豊臣家の長としての秀吉の命令を拒否したのに対し、その姻族であった晴季は公の職務懈怠だけだったからだ、と、想像しています。
 命令拒否とは何かは、やはり、次の次のオフ会「講演」原稿に譲ります。(太田)

 現職の右大臣左遷という事態に対しても、後陽成天皇はなすすべはなかった。・・・
 秀次が追放されたあと関白が闕官(けつかん)となっただけでなく<秀次が兼務していた>左大臣も新たに任じられることはなく、さらに・・・菊亭晴季が・・・配流されたことで、右大臣も欠き、ここに現職の公家大臣は一人もいない事態となった。
 この状態は<1596>年5月に徳川家康が内大臣に任官して以降も秀吉が死去する・・・1598<年>まで続く。・・・
 こうした現職の公家大臣が一人もいない体制を秀吉が意図して作り出したのかは、いま明らかにしえないが、朝廷はいうに及ばず関白職だけでなく大臣にほぼ恒常的に任官してきた摂家にとっても、異常な事態であった。・・・」(222~223、225)

⇒「秀吉が意図して作り出した」に決まっています。
 近衛家を始めとする公家達、ひいては、後陽成天皇、に対する恫喝が目的だった、と、私は想像しているところです。(太田)

(続く)