太田述正コラム#12040(2021.5.25)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その26)>(2021.8.17公開)

 「1596<年>8月中旬に和泉堺に到着した明使節と朝鮮使節の引見は8月下旬に伏見で予定されていたが、閏7月12日も深夜に襲った大地震によって、伏見城は大きく損壊し、明使節等の引見は延期され、9月1日、大阪城での引見となった。
 その場で秀吉は、・・・<1595年>正月21日付の明皇帝勅諭として出された冊封(さくほう)文と明皇帝から贈られた常服等を受け取った。
 従来この場で秀吉は、秀吉を日本国王に冊封するとしたことに激怒し、朝鮮への再出兵に踏み切ったとされてきたが、近年の研究では、そうではなかったことが明らかになってきている。
 秀吉の引見のあと堺へ戻った明使節を接待するために遣わされた使僧達に、明の使節が朝鮮におけるすべての城塞の破却と軍勢の撤退を求める書簡を言づけた。
 それを読んだ秀吉が激怒し、その怒りは、王子を伴わなかった朝鮮使節に向けられ、秀吉は、朝鮮の無礼を責め、和を許し得ないとし、再征に踏み切ったのである。・・・
 秀吉は冊封自体をともかく受け入れたものの、矛先を朝鮮に向け、朝鮮の「礼」なきことを責め、朝鮮使節には会おうともしなかったのである。

⇒文禄・慶長の役のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
では、「近年の研究では」以下に書かれているような話は全く出て来ず、改めて調べてみるつもりでいますが、私は、そもそも、秀吉が唐入りを諦めたことは一度もなく、講和交渉が行われたのも、「天皇・朝廷<の>巻き込」みが完了するまでの時間稼ぎを行うのが目的だった、と考えているので、このあたりの経緯の細部を余り気にする必要はない、と、思っています。(太田)

 1596<年>9月、朝鮮への際出兵を決した秀吉は、・・・1597<年>2月21日付で再出兵の条々と陣立書を出した。
 朝鮮に渡る主力は、これまで同様、九州・中国・四国の大名たちであったが、その目標はもはや「唐入り」ではなく、朝鮮南部、なかでも全羅道の制圧にあった。・・・

⇒そうは思いません。
 そもそも、藤井の述べているのは作戦目的であって、戦争目的ではありません。(太田)

 2月、朝鮮在陣の諸将によって在番城の縮小再編案が作られ、秀吉のもとに送られるが、秀吉はその戦線縮小ともみえる案に激怒し、それを許さなかった。
 秀吉は、一方で兵粮米備蓄を強化し、5月には在番城の再編を命じ、翌年に大規模な派兵を行うと言い続けるものの、もはや新たな軍事行動をするだけの状況にはなかった。」(228~230)

⇒「7年に亘る戦争の間、大軍の海上輸送と揚陸、海岸の拠点・海上補給路の構築と長期間の維持という渡海作戦は成功を収めていた<。>・・・膨大な軍事費の支出および戦死者・・數十萬・・を出したことと皇帝万暦帝<(注60)>の奢侈<が相俟って>明の国力を食い潰し<た。>」(上掲)ということから、日本側が制海権を確立していたこと、日本軍に比し明軍の損害の方が桁違いに多かったこと・・日本側の損害は最大限に見積もっても5万人(上掲)・・明の上層部(皇帝、文武官)が腐敗していたこと、が分かるのであって、万暦帝が生きているうちに女真(後の清)の跳梁になすすべもない状態に陥り、文禄・慶長の役から半世紀も経たないうちに明は清によって滅ぼされてしまう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E
ことを想起すれば、藤井によるこのような悲観的総括には、到底首肯できるものではありません。(太田)

 (注60)1563~1620年。皇帝:1572~1620年。「<即位>10年<目>に・・・親政を始めると一転して堕落し、寵姫鄭貴妃の偏愛による立太子問題・・・が起きた。また日本の豊臣秀吉が引き起こした朝鮮の役においては、宗主国として朝鮮を援助し、それ以外にも寧夏のボハイの乱・播州の楊応龍の乱の鎮圧(朝鮮の役を含めて万暦の三征と呼称)などによって、軍制の腐敗と相まって財政は悪化した。
 さらに朝廷の中では、・・・東林書院を中心とする東林党と、・・・宦官勢力と結んだ非東林党の争い(党争)が激化して宦官が跋扈するようになり、また満州の女真もヌルハチの下で明の遠征軍を破るなど強大化して国事多難となった。
 しかし万暦帝は相変わらず政治に関心を持たず、国家財政を無視して個人の蓄財に走った。官僚に欠員が出た場合でも給料を惜しんで、それを補充しないなどということを行い、このために一時期は閣僚が1人しかいない、あるいは地方長官が規定の半数しかいないなどという異常事態となった。
 さらに悪化した財政への対策として(あるいは自らの貯蓄を増やすために)、全国に税監と呼ばれる宦官の徴税官を派遣して厳しい搾取を行った。この搾取に反対する民衆により税監たちがたびたび殺される事件が起こったが、万暦帝は最後まで廃止しようとはしなかった。
 国家にとって不可欠な出費を惜しむ一方で、私的な事柄には凄まじい贅沢をした。例えば鄭貴妃の子である福王朱常洵を溺愛し、その結婚式のために30万両という金額を使っている(<即位後、親政前に>張居正が政治を執っていた十数年に国庫に積み上げた金額が400万両である)。このことで民衆の恨みを買い、後に朱常洵は蜂起した李自成軍に捕らえられた時に残忍な殺され方をしている。
 後半生では25年にわたって後宮にこもり、朝政の場には全く姿を現さなかったという。その一方で文禄・慶長の役で突然臨朝し断固出兵を主張したとき<のように>大臣を吃驚させること少なくなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E6%9A%A6%E5%B8%9D

(続く)