太田述正コラム#12046(2021.5.28)
<藤田達生『信長革命』を読む(その3)>(2021.8.20公開)

 「謙信が義輝を支持したのは、やはり越後国主としての名分を、<足利>義澄系将軍家・・義澄は堀越(ほりごえ)公方政知の子息・・への奉公に求めたかったからにほかならないであろう。

⇒「僅か2代(実質上1代)で滅んだ堀越公方」系の足利義輝、に、この堀越公方と対立して「勝利」した古河公方の下の関東管領の山内上杉家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E8%B6%8A%E5%85%AC%E6%96%B9
を継承することとなるところの、(山内上杉家の重臣家たる長尾家に生まれた)長尾景虎改め上杉謙信、が、一体どうして奉公したかった、ということになるのか、私にはさっぱり分かりません。(太田)

 謙信は、<1561>年閏3月に鶴岡八幡宮で事実上の関東管領に就任し、鎌倉府体制の復活をめざすが、それは義輝の政権構想とも合致した。
 また義輝と従兄弟関係にあり側近でもあった関白近衛前久<(注4)>・・・が、越後に下り謙信とともに関東に出陣し、古河(こが)公方足利藤氏を支えている。

 (注4)「天野忠幸<は、近衛(家の後の)前久は、>・・・関白左大臣<にして>・・・藤氏長者<の時の>・・・1555年・・・1月・・・、足利将軍家からの偏諱(「晴」の字)を捨てて、名を前嗣(さきつぐ)と改めた。この当時、将軍・足利義輝は三好長慶との対立により、京から朽木に動座しており、改名したのは義輝との関係を断とうとしたからとされる。」としているのに対し、「湯川敏治は、近衛尚通の妹・慶寿院が将軍・足利義晴に嫁いで所生の義輝が将軍になったことで、近衛家を介して朝廷と室町幕府の関係が強化されたことを指摘し、前久の下向の背景には、近衛家先代稙家・正親町天皇・将軍義輝・慶寿院らによって進められていた朝廷(室町幕府)再興計画の一環として謙信の上洛を促すために派遣されたとする説を採<ってい>る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85

⇒近衛家の武家との結婚が、欺騙目的のことがある、ということを、同家の12世紀後半の平家との間の2回にわたるそれから、我々は知っている(コラム#省略)、ということもあり、藤田が拠っていると思われる、湯川の説ではなく、どうやら通説らしい、単純明快な天野説、の方を私は買っている次第です。(太田)

 京都と関東、そして武家と公家との一体的な統合、これが義輝の政権構想であったと判断して大過あるまい。

⇒そう判断する根拠を、藤田は示してくれていません。
 (「足利義満以降の歴代将軍は花押に武家様と公家様の2種類を使い分けるか公家様のみを用いていたが、短期間で没して花押が知られていない義勝と義栄を別とすれば義輝だけが武家様の花押のみを用いている(先例に基づけば、権大納言以上に昇進してから花押を改める予定だったとも考えられるが、そもそも官位の昇進を志向していない」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%BC%9D
ことからは、「武家と公家との一体的な統合」を目指していたとは到底思えません。)
 いや、それ以前に、自らの政治生命の危機どころか物理的生命の危機にすら直面し続けた義輝に、新たな「政権構想」を練る暇などなかったのではないでしょうか。(太田)

 信長も謙信も、義輝のもとで公武一統の強力な室町幕府体制の復活に賭けたとみられるのである。」(29、31)

⇒義輝に事新たな政権構想などなかった、とすれば、そんなものがらみで信長や謙信まで持ち出すのは時間の無駄というものです。
 斎藤義龍の、景虎(謙信)、信長と同じ1559年における(その1回限りの)上洛の経緯は、「将軍足利義輝より「一色氏」を称することを許され、美濃守護代家斎藤氏より改名、・・・1558年・・・に治部大輔に任官し、・・・1559年・・・に・・・上洛し、足利義輝に謁見」した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E7%BE%A9%E9%BE%8D
ものだというのですから、その目的が御礼言上であったことがミエミエですし、信長の(1回目の)上洛の目的についても、「村岡幹生によれば、・・・目的は、新たな尾張の統治者として幕府に認めてもらうことにあったという<が>、この目的は達成されなかったと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
との説に、私は説得力を覚えます。
 そして、景虎の場合は、「1550年・・・2月、<越後守護の上杉>定実が後継者を遺さずに死去したため、景虎は室町幕府第13代将軍・足利義輝から越後守護を代行することを命じられ、越後国主としての地位を認められた<ところ、>・・・1553年・・・9月、・・・第一次川中島の戦い<の直後に>・・・<もともと予定していたところの、>初めての上洛を果たし、後奈良天皇および将軍・足利義輝に拝謁している。京で参内して後奈良天皇に拝謁した折、御剣と天盃を下賜され、敵を討伐せよとの勅命を受けた。この上洛時に堺を遊覧し、高野山を詣で、京へ戻って臨済宗大徳寺91世の徹岫宗九(てつしゅうそうく)の下に参禅して受戒し、「宗心」の戒名を授けられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1
というのですから、この上洛は、御礼言上にしては遅過ぎるのであって、受戒が主たる目的だったように私には思えますし、2回目の上洛については、「1558年、将軍・義輝から上洛要請があり、翌年に洛することを伝え<、>・・・1559年・・・5月、再度上洛して正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁<したところ>、義輝から管領並の待遇を与えられた」(上掲)というわけで、義輝からの要請に基づくものであった点で、同じ年の、義龍や信長の上洛とは大きな違いがあったように思います。
 「天野忠幸はこの年に<、>景虎だけではなく、織田信長や斎藤義龍も急遽上洛していることに注目し<、>この前年である<1558>年、足利義輝と三好長慶の戦い<で>長慶が正親町天皇の支持を取り付けて有利な形で和睦しており、曲りなりにも存続してきた室町将軍を頂点とする秩序が大きな打撃を受けた<ことから>、義輝との関係を維持することで権威を保ってきた諸大名が動揺し、状況を確かめるために上洛に踏み切ったのではないか、と推測している」(上掲)ところですが、戦いに準えれば、軍司令官が自ら諜報活動に従事するような話であり、しかも、「室町将軍を頂点とする秩序が大きな打撃を受け」ている状況は、1558年に始まったわけでもなし、私には、穿ち過ぎの説のように思われます。(太田)
 
(続く)