太田述正コラム#12048(2021.5.29)
<藤田達生『信長革命』を読む(その4)>(2021.8.21公開)

 「精力的に幕府再建をめざしていた義輝であったが、雄図むなしく、<1565>年5月19日に三好三人衆・・・と松永久秀らの軍勢によって、白昼に暗殺されてしまう–永禄の変–。
 佐藤進一氏の指摘によれば、信長の代表的な花押・・・である「麟」<(注5)>の草体の使用の契機は、・・・<こ>の義輝の暗殺にあるとされる・・・。

 (注5)「麒麟・・・は、<支那>神話に現れる伝説上の動物(瑞獣)の一種。・・・『礼記』によれば、王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物「瑞獣」とされ、鳳凰、霊亀、応竜と共に「四霊」と総称されている。・・・孔子によって纏められたとされる古代<支那>の歴史書『春秋』では、聖人不在で泰平とは言えない時代に麒麟が現れ、捕らえた人々が麒麟を知らず気味悪がって打ち捨ててしまったことに、孔子は深く諦念し筆を擱(お)いてしまうという、いわゆる「獲麟」の記事をもって記述が打ち切られている。
 織田信長は麒麟という字を具現化した花押(麟の花押)を使用している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%92%E9%BA%9F

 この花押の変更は、一大痛恨事に衝撃を受けた信長が、亡き義輝の政権構想を実現すべく決意したことのあらわれであり、重大な意味を含んでいる。・・・

⇒くどいようですが、信長の「政権構想」は、「亡き義輝の」ではなく、「信長自身の」だった、と、私は考えています。(太田)

 遅くとも<1566>年6月までに、<還俗はしたけれどまだ将軍任官は果たせていなかったところの、足利>義昭の推挙によって信長が尾張守に任官していたことが確認されている。
 実力で管領斯波氏にかわって尾張守護としての地歩を固めたとみるべきであろう。・・・
 ・・・信長が、・・・早くも同年12月に「御供奉の儀」・・・、すなわち上洛戦への協力を表明したのも、当然のことであった。・・・
 信長は、美濃・尾張そして伊勢という環伊勢海三カ国の支配拠点として、居城を稲葉山城に移し、地名を中国の故事にちなんだ「岐阜」とした。
 そして同年11月からは、有名な「天下布武」<(注6)>の印章を用いるようになる。

 (注6)「天下布武」<の、布武とは、>・・・<支那>の史書からの引用で「七徳の武」・・武を用いて、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊にする、の七つの徳を実現するもの。・・という為政者の徳を説く内容の「武」であったと解釈されている。・・・
 「天下」とは、室町幕府の将軍および幕府政治のことを指し、地域を意味する場合は、京都を中心とした五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国。現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを指すと考えられている。
 そして、「天下布武」とは五畿内に足利将軍家の統治を確立させることであり、それは足利義昭を擁して上洛後、畿内を平定し、義昭が将軍に就任した<1568>年9月から10月の段階で達成された事、とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7 前掲

⇒「布武」については、「注6」・・「史書」名が知りたいが・・の通りとして、「天下」については、「天下」=「五畿内」とする用法も当時あったとしても、「「天下」の本来の意味には、支配地域の境界は無<い>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E7%B5%B1%E4%B8%80
以上、突然の死を迎えるまでの信長の軌跡に照らせば、「天下布武」の「天下」の意味は、この本来の意味だった、と解するのが自然ではないでしょうか。
 というのも、私は、信長が、少なくとも岐阜時代からは、日蓮主義者であったと見ており、「天下布武」の後半の「布武」が日蓮主義そのものであることに鑑みれば、日蓮主義を及ぼすべき地域が全世界であるべきことは自明だからです。(太田)

 この印文は、大軍を擁して上洛することによって、天下、すなわち京都の復興をめざすことを意図したものである。
 義昭を奉じて幕府を再興することが、領国支配の安定化に直結すると認識した当時である。

⇒京都だの領国だのを持ち出していることから、「天下布武」に係る諸説中、藤田は、いわばミニマム説を唱えていることになりそうですね。(太田)

 自らの武力によって室町幕府にかわる政権を樹立しようとする意志の表明などではない。
 筆者は、いかに強気の信長でも、一足飛びにそのような大望をもったとは思わない。
 早くもこの段階で、信長が天下統一を意識していたとするような見解をもっている研究者も少なくないが、どのような史料をもとに主張しているのか根拠が不明である。

⇒藤田説の典拠たる史料は皆無のはずです。(太田)

 上洛と天下統一との間には、相当の懸隔があるからだ。
 <1568>年7月、信長は越前一乗谷の戦国大名朝倉氏のもとに亡命していた義昭を岐阜に迎えると上洛の準備にかかり、9月には6万(一説に4万)ともいわれる尾張・美濃・三河<・・伊勢のミスプリだろう(太田)・・>の環伊勢海諸国の大軍団を従え、迎え討つ近江六角氏を一蹴して入京し、手を緩めることなく三好三人衆を追いだして瞬く間に畿内を平定した。
 義昭が15代将軍に任官したのは、同年10月18日のことだった。・・・」(31、33、35)

(続く)