太田述正コラム#12050(2021.5.30)
<藤田達生『信長革命』を読む(その5)>(2021.8.22公開)

 「従来義昭政権は、信長の傀儡であると理解されてきたが、近年の研究によって、それは根本的な修正を迫られることになった・・・。
 義昭政権が、幕府機構を整備し、御料所<(注7)>を再興し、さらに都市「京都」の商工業権益<(注8)>・地子銭<(注9)>等を掌握したことが明らかになり、幕府としての実態をもっていたと結論づけられたのである。

 (注7)「御料所(ごりょうしょ)は、天皇(皇室)及び幕府などのいわゆる「公儀」と称される公権力が直接支配した土地(直轄地)である。・・・
 室町幕府も50ヶ所近い御料所(公方御料)を保持して、直臣の奉公衆・奉行衆を代官として派遣して納めさせていたが、戦乱が相次いだことで経営は不安定だった。足利氏が鎌倉幕府に認められていた所領35ヶ所及び建武政権下で鎌倉幕府倒幕の恩賞として授けられた45ヶ所が公方御料の元となったが、足利義満・義持の頃まで幕府に残されていたのは下野国足利荘など少数であった。その一方で幕府成立後の獲得分も存在し、記録上登場する公方御料はのべ200ヶ所にのぼるが、一時的な支配地も相当数含まれていた。そのため次第に京都の商工業から挙がる税収に依存するようになる。納銭方を「料所」と呼称したのもその反映であったとされる。また、山城国守護職を幕府の侍所所司などの要職者に宛がって短期間で交代させることで守護領国制の形成を阻止するとともに、その経済的得分の一部を確保していた。ただし、御料所には足利将軍家の近親や、守護やその関係者に預けられるケースもあり、御料所の中には大規模・高収入な所領がかなり多く、通説よりも高く評価すべきだという説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%96%99%E6%89%80
 (注8)「土倉役<は、>・・・室町幕府が公認した質屋に課した税。倉役(くらやく)ともいい、質物の数量に応じて賦課された。酒屋役と共に幕府財政の大きな財源であった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9C%9F%E5%80%89%E5%BD%B9-342072
 「酒屋役<は、>・・・室町時代,酒屋に課された営業税。1347年新日吉(いまひえ)社造営料として臨時に課されたのが初見。まもなく洛中酒屋に対し朝廷の造酒正(さけのかみ)から酒麹役(酒壺役)が恒常的に賦課された。一方幕府も1393年に洛中辺土に一律に酒屋役(酒壺別にかける生産営業税)を賦課した。酒屋の毎月平均納税額1貫500文,幕府の年収は約5400貫で,重要な財源であった。後には請酒(うけさけ)という小売業者などにも課税した。なお荘園領主・諸大名も酒屋役を徴した。」
https://kotobank.jp/word/%E9%85%92%E5%B1%8B%E5%BD%B9-509217
 「納銭方(のうせんかた/なっせんかた)・・・は、室町幕府が土倉役・酒屋役を徴収するために土倉・酒屋の有力者から任命した徴税委託の機関である。土倉役・酒屋役は御料所や段銭・棟別銭などと並ぶ室町幕府の主たる財源の一つであり、明徳4<(1393)>年の制法により年間6,000貫文が納められることが定められた。当初は複数の山徒(比叡山延暦寺の衆徒)の土倉(山門土倉)によって構成される土倉方一衆がその任に当たっていたが、次第に生じるようになった戦乱や土一揆による納銭の減少を食い止めようとする幕府は、その役目を山門土倉ではない洛中の土倉・酒屋にも担わせることがあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E9%8A%AD%E6%96%B9
 (注9)じしせん・ちしせん。「中世以後、地代として納入した銭。・・・地子とは、古代には公田の余りを貸し付けられたときに支払う租税であったが、のちには荘園(しょうえん)などの小作料を意味した。さらに、一般の雑税の意味に変化し、室町時代になって宅地などの地子(屋地子)が銭納となり、この語が生まれた。戦国時代には、大名により商工業者の城下町への集住が奨励され、の特典が与えられるようになった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9C%B0%E5%AD%90%E9%8A%AD-73228
 「地子免許とは、近世の都市において町屋敷地にかかる地子(農村の年貢に相当する)を領主権力が免除すること。・・・織田政権が・・・1567年・・・に岐阜城の城下町である加納に楽市令とともに地子免許を命じたのが初例とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90%E5%85%8D%E8%A8%B1

 信長が、添状(副状とも記す)を発給するなどして義昭を補佐したのは、最有力の幕臣という立場に由来していたからだ。
 たとえば「永禄六年諸役人附」では、信長が外様大名衆として位置づけられている。
 程なく2人は幕政のありかたをめぐって対立し、政権が分裂したのである。・・・」(40)

⇒藤田自身による研究成果ではないようですが、このくだり、得心が行きません。
 室町幕府の御料所なるものは、要は足利将軍家の私領であって、たとえ、将軍が亡命していて将軍としての仕事を殆どしていない状態においても、そこから得られる諸税徴収「権」が失われるものではないでしょうし、土倉役/酒屋役や地子銭は、京都地方税のようなものであって、京都を支配している者なら誰でも・・恐らくは三好長慶も・・徴収「権」を行使し、京都の行政費(含む「一般管理費」)に充当した、と、想像されるわけであり、これらの徴集権を行使したことが、どうして、「幕府としての実態をもっていた」ことを意味することになるのでしょうか。
 また、義昭は、外様だろうが何だろうが、信長、がいなければ、上洛も、従って、将軍になることもできなかったのですから、義昭の室町幕府なるものは、権威は(正親町天皇と共に)義昭が、権力は信長が担う政権だった、すなわち、実態としては、それはもはや室町幕府ではなかった、と言うべきではないでしょうか。(太田)

(続く)