太田述正コラム#12052(2021.5.31)
<藤田達生『信長革命』を読む(その6)>(2021.8.23公開)

 「長島一揆に代表される戦国時代末期の一向一揆においては、将軍義昭の推戴と反信長勢力との連携という政治路線が貫かれていた。
 この時期に誕生した甲賀郡中惣や伊賀惣国一揆などの大規模一揆においても、これは同様であった。
 信長との抗争を通じて、義昭の幕府は民衆的基盤をもったのである。

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[一向一揆]

 「主な一向一揆
・近江・金森合戦(1466年・・・)…史上初の一向一揆
・越中一向一揆(1480年・・・-1576年・・・)
・加賀一向一揆(1488年・・・-1582年・・・)
・享禄・天文の乱(大小一揆)(1531年・・・)
 ・畿内(奈良)一向一揆(1532年・・・)…大和天文一揆
・三河一向一揆(1563年・・・-1564年・・・)
・石山合戦(1570年・・・-1580年・・・)…本願寺第十一世・顕如が雑賀衆・浅井氏・朝倉氏・武田氏・上杉氏・毛利氏などと連合して信長包囲網の中核を成し、各地の門徒と連動して十年間に渡り織田氏を苦しめた史上最大の一向一揆
 ・長島一向一揆(1570年・・・)-1574年・・・)
 ・越前一向一揆(1574年・・・)-1575年・・・)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86
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⇒すぐ上の囲み記事から分かるように、一向一揆には長い歴史があり、固有のダイナミズムでもって推進され、石山合戦に至ったのであって、主な一向一揆の一つずつの詳細に踏み込むのは止めておきますが、常に、一向宗側は、その時の敵の敵を利用してきたところ、同じことが、大フィナーレとも言うべき石山合戦等においても見られた、というだけのことでしょう。
 そもそも、石山合戦の総帥たる顕如が、最初に挙兵したのは1570年であり、それは、義昭/信長政権に対する挙兵であったところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD
「<義昭が、翌>1571年・・・頃から<、>上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめ<、>これは一般に信長包囲網と呼ばれている<が、>この包囲網にはかねてから信長と対立していた朝倉義景・浅井長政や延暦寺、兄の敵でもあった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わっている<けれど>、松永久秀追討に義昭の兵が参加するなど、義昭と信長の対立はまだ必ずしも全面的なものにまではなっていなかった」(上掲)頃から、次第に義昭も利用しつつ信長に対する挙兵へと移行し始めた、ということではないでしょうか。
 それに、既に記したように、信長が義昭を京から追放した時点で室町幕府は事実上滅びているのですから、「信長との抗争を通じて、義昭の幕府は民衆的基盤をもった」という藤田の言い草は噴飯物です。(太田)

 信長は、上洛戦の前提として・・・1568<年>2月に北伊勢に侵攻し、三男信孝を河曲(かわわ)郡の神戸(かんべ)氏の、実弟信包(のぶかね)を安濃(あのう)郡の長野氏の養子とし、さらに一族津田一安(かずやす)を伊勢を代表する港湾都市・安濃津(あのつ)(三重県津市)に置いた。
 これは、東山道のみならず北伊勢を縦貫する東海道を掌握するためだった。・・・
 <1569>年9月には南伊勢の国司大名・北畠氏を攻撃し、講和によって次男信雄をその養子とすることに成功した。
 このようにして、伊勢一国が信長の新たな領国に加えられたのである。・・・

⇒「長島(現三重県桑名市)はもともと「七島(ななしま)」であり、尾張国と伊勢国の国境にある木曽川、揖斐川、長良川の河口付近の輪中地帯を指す。幾筋にも枝分かれした木曽川の流れによって陸地から隔絶された地域で、伊勢国桑名郡にあったが、『信長公記』に「尾州河内長島」とあるように尾張国河内郡とも認識されていた。
 1501年・・・、杉江の地に願証寺が創建され、蓮如の六男・蓮淳が住職となった。以後、本願寺門徒は地元の国人領主層を取り込み、地域を完全に支配し、後に長島の周りに防衛のため中江砦・大鳥居砦などを徐々に増設し武装化した。
 この付近には願証寺をはじめ数十の寺院・道場が存在し、本願寺門徒が大きな勢力を持っていた。伊勢尾張美濃の農民漁民10万人の信徒が勢力下で勢力は10万石規模で・・・一種の自治勢力であった。・・・
 1561年・・・、織田信長は尾張を統一したと認識されているが、この長島は支配していなかった。
 1567年・・・8月、信長は稲葉山城を落として美濃国を平定したが(稲葉山城の戦い)、城を落とされた斎藤龍興は「河内長島」へ逃げ込んだという。直後、信長は龍興を追って伊勢へ侵攻し、長島を攻撃した。その上で北伊勢の在地領主を服属させた。・・・
 <ところが、>1570年・・・9月、本願寺の反信長蜂起(石山合戦)に伴って、・・・長島でも門徒が一斉に蜂起、またこれに呼応して「北勢四十八家」と呼ばれた北伊勢の小豪族も一部が織田家に反旗を翻し一揆に加担した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B3%B6%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86
という次第であり、「伊勢一国が信長の・・・領国」であったのは、1567年から1570年までのわずか3年間だけだったことに留意すべきでしょう。(太田)

 信長が、伊勢に実弟や子息<達>まで置いたのは、東国–京都および日本海–太平洋の流通がクロスする同国の掌握が、尾張・美濃の領有を保障する重大な条件と判断したからにほかならない。・・・」(43~44、46)

(続く)