太田述正コラム#12082(2021.6.15)
<藤田達生『信長革命』を読む(その21)>(2021.9.7公開)

 「その結果、彼が到達したのは、家臣団に本領を安堵したり新恩を給与したりする伝統的な主従制のありかたを否定し、大名クラスの家臣個人の実力を査定し、能力に応じて領地・領民・城郭を預けるという預治思想だった。
 これこそが、「安土幕府」を起点とする新たな政治思想である。
 信長が旧来の封建道徳との戦いのなかで預治思想に到達したのは、・・・朱子学の影響によるもので、具体的施策については、中国皇帝が官僚を通して中央集権的に直接統治する郡県制や、その応用形態である郡国制の影響を受けたことによる、と筆者は判断する。・・・

⇒それだけのことなら、細部の実態はともかく、律令制時代の日本が郡県制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E7%9C%8C%E5%88%B6
そっくりの令制国制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E5%88%B6%E5%9B%BD
だったのですから、朱子学の影響もへったくれもなく、単に、ひと昔前の日本へと復古しようとした、というだけのことでしょう。(太田)

 信長に拠る天下統一戦は、全国の領主から・・・本主権(先祖伝来の本領に対する伝統的支配権)・・・を奪い、あらためて国主大名以下の領主に領土・領民・城郭を預けることをめざす「革命」だった・・・。・・・

⇒ですから、そんなものは、その限りにおいては、revolution(革命)ではなく、単なる、restoration(復古)、でしかありません。(太田)

 信長の預治思想の中核にある大名への領地・領民・城郭の預け置きについては、大名の官僚化といってもよい。
 一大私領主としての大名が、信長によって公領を預かる官僚へと変質したのである。
 実際、信長の重臣クラスにおいてさえ、嫡子への相続は保証されていなかった。・・・
 これは豊臣政権においても同様<だった。>・・・
 江戸時代においても、初期には嫡子への相続は外様大大名でさえ当然のことと認識してはいなかった。
 頻発する家中騒動によって社会不安が増大化した結果、嫡子相続のための制度整備がおこなわれたのである・・・。・・・
 江戸時代初期の名君池田光政<(注58)>は、預治思想にもとづく国家論を展開した<(注59)>名君として著名だが、それも朱子学の影響によるものといわれている。・・・。

 (注58)1609~1682年。「儒教を信奉し陽明学者熊沢蕃山を招聘した。・・・1641年・・・、全国初の藩校花畠教場を開校した。・・・1670年・・・には日本最古の庶民の学校として閑谷学校(備前市、講堂は現在・国宝)も開いた。教育の充実と質素倹約を旨とし「備前風」といわれる政治姿勢を確立した。岡山郡代官津田永忠を登用し、干拓などの新田開発、百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水を行った。また、産業の振興も奨励した。このため光政は水戸藩主の徳川光圀、会津藩主の保科正之と並び、江戸時代初期の三名君として称されている。・・・光政は幕府が推奨し国学としていた朱子学を嫌い、陽明学・心学を藩学として実践した。この陽明学は自分の行動が大切であるとの教えで、これを基本に全国に先駆けて藩校を建設、藩内に庶民のための手習所を数百箇所作った。後に財政上の理由で嫡男の綱政と手習所存続をめぐって対立した。のちに手習所を統一して和気郡に閑谷学校を造った。・・・
 神儒一致思想から神道を中心とする政策を取り、神仏分離を行なった。また寺請制度を廃止し神道請制度を導入した。・・・日蓮宗不受不施派も弾圧した。・・・
 大老の酒井忠勝は・・・1652年・・・9月に光政謀反の風説を断じて光政に心学をやめるように警告した・・・。京都所司代<の>・・・板倉重宗は心学に深い関心を寄せており理解もしていたため、光政に賛同しながらもその政治的地位から自重するように求めた・・・。
 光政は明暦・寛文年間になると心学から朱子学へと移行している。これは幕府の圧力(特に朱子学者の林羅山)があったためといわれる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%85%89%E6%94%BF
 (注59)「「・・・国君は上に大君有。国君の御領地は、大君より預給ふ物にして、其職分は大君より命じ給ふ事なり。大国を預りましく重き御職に居給ふて・・・」(『率章録』巻一「三、忠君」より)
https://core.ac.uk/download/pdf/144430952.pdf

⇒陽明学オシの光政の預治思想が(陽明学と朱子学のルーツは同じとはいえ)朱子学由来という藤田の主張には疑問符がつきますが、仮に信長に預治思想があったとすれば、それは天(天主)からの預治であったはずであるのに対し、光政のそれが将軍からの預治・・将軍にあっては天皇からの預治・・でしかない、相対的に著しく「矮小」なものであったことは、藤田が下で指摘する通りでしょう。
 (私としては、信長と違って、光政が仏教に対して、徳川幕府よりも更に否定的な姿勢であったことも、大変気になります。)(太田)

 しかし信長の主張したそれと決定的に異なるのが、江戸時代の預治思想は、天皇–徳川将軍–藩主の関係から説かれるもので、・・・徳川将軍が天皇から天下の実権を預かっていると位置づけたことである。
 そこに幕末の尊王攘夷運動の基盤となる水戸学の素地があった・・・。
 信長の場合、最終的には遷都、すなわち天皇の転封を計画していることからも、天皇が介在しないのである。
 新天皇が京都を離れてわざわざ安土に行幸するという一大イベントは、少なくとも天皇の上位に自らを位置づけねばありえなかった。

⇒同意できません。想定されていたのは天皇の安土への一時的な行幸に過ぎませんでしたし、そもそも、信長は自分を天皇の上位に位置づけるつもりなどさらさらなかった、との私見は、次回オフ会「講演」原稿に譲ります。(太田)

 これは、大陸侵略を宣言した時期の秀吉においても然りであった。
 <1593>年5月、秀吉は関白豊臣秀次に対して、明国を征服したあかつきには、後陽成天皇を北京に移し、日本の天皇は皇子の中から即位させることを伝えている。
 そして自らは、寧波(ニンボー)に本拠地を移しインドも含めたアジア世界を支配することを打ち出した。
 信長も、そして秀吉も実現しえなかったが、日本以外の東アジア地域を領土にもち、天皇権威を包摂する未曾有の王権を確立しようとした可能性は高い。
 かりにそれを皇帝化と表現するならば、彼らの麾下にある大名・領主は、地方に派遣された官僚に位置づけられることになっただろう。・・・」(177~180、182~183)

⇒秀吉に関しては、次々回のオフ会「講演」原稿で・・。(太田)

(続く)