太田述正コラム#12086(2021.6.17)
<藤田達生『信長革命』を読む(その23)>(2021.9.9公開)

 「外様大名にとって信長の天下統一とは、戦国大名的な本領支配を保証するものでなければならないが、天下統一を目前に控えた信長にとっては、国替えや減封さえも受け入れる官僚への変質を強制するものであり、両者の志向は非和解的なものになっていた。
 ここで・・・本能寺の変の背景を示す史料として「南海通記」<(注62)>の関係部分を現代語訳して掲げる。・・・

 (注62)「江戸時代に書かれた四国の武家の通史・・・
 讃岐の名族香西氏の末裔香西成資(1632-?)が先祖の事績をたどるために編纂したものだが、四国は室町幕府管領の細川氏の地盤であり、香西氏はその重臣であったため、室町時代から織豊時代の四国および中央の政局をほとんどカバーするものとなった。戦国時代は管領細川氏→その守護代三好氏と四国勢力が京・畿内を左右する構図になっており、のちの織田信長・豊臣秀吉も中央での戦いは四国勢力の払拭にあった。」
https://www.amazon.co.jp/%E5%8D%97%E6%B5%B7%E9%80%9A%E8%A8%98-%E9%A6%99%E8%A5%BF-%E6%88%90%E8%B3%87-ebook/dp/B01N7GKBBL

  ・・・<長宗我部元親(注63)>は、信長が御上洛される以前から<信長と>交渉をもっていた。御奏者(そうじゃ)は、明智光秀だった。・・・<その後、>光秀の媒介によって・・・四国の進退は元親の軍事行動次第に切取ってよいとする信長朱印を頂戴した。・・・

 (注63)1539~1599年。「長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。・・・土佐統一後、中央で統一事業を進めていた織田信長と正室の縁戚関係から同盟を結び、伊予国や阿波国、讃岐国へ侵攻していく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA

  <ところが、信長は、>その後に朱印状の内容を違えて、伊予・讃岐を信長に差し上げ、阿波南郡半国を本国土佐に添えて給与すると仰せられた。
  元親は、「四国のことは私の軍事行動で切り取ったものである。信長からの御恩としてたまわったものではさらさらない。存外な仰せに驚いている」として、まったく命令を聞き届けなかった。また重ねて光秀から<自分の部下の>斎藤利三<(コラム#11974)>の兄石谷頼辰を使者として土佐に派遣されたが、これに対しても少しも聞き入れなかった。
  そのようななりゆきで、(信長は)四国への侵攻を急に命ぜられた。・・・
  斎藤利三が四国のことを心配に思ったことから、光秀が謀反の決行をますます急いだので、早くも<1582年>6月2日に<本能寺で>信長が切腹した。・・・
 ここに描かれている信長の外交政策の転換は、確かに長宗我部氏にとっては理不尽以外の何物でもなかったが、当の信長にとっては当然といってよい措置であった。
 このズレが、<織田>政権崩壊への序曲となったのである。・・・
 光秀のような教養人にとって<このような信長の>預治思想は、危険思想と映ったに違いない。
 古来の伝統的な権威と秩序を、根底から破壊しつくす可能性があるからである。」(201~203)

⇒次のオフ会「講演」原稿で明らかにするように、教養という点では、話は真逆であり、信長こそ超が付く教養人であったのに対し、光秀は、教養人の域には達していない人物でした
 しかし、教養人とは言えなくても、土岐氏の支流だった光秀クラスの一武家であれば、封建制以前の令制国制的なものへの回帰が、「古来の伝統的な権威と秩序を、根底から破壊しつくす可能性がある」などとは考えない程度の基礎的教養、というか、日本史に関する常識、くらいは身に着けていたはずです。
 なお、信長が、果して、藤田の言うところの預治思想を抱懐していたかどうかについても、次のオフ会「講演」原稿に譲ることにします。。
 ここでは、下掲の、ある意味、率直過ぎるような鳥観的諸指摘を紹介するにとどめておきます。↓
 「全国制覇を間近にしながら、実は統一後の信長の政権構想はよく分かっていない。「信長革命」(角川選書)の藤田達生・三重大教授は、信長が自らを天から統治権力を委託された特別な存在とみていたとし「『預治思想』に基づく東アジア的、革新的な国づくり」を想定している。将軍はもとより、ある意味で天皇すら超える存在だ。一方「織田信長 不器用すぎた天下人」(河出書房新社)の金子拓・東大史料編纂所准教授は、「破壊的な革命者」としての極端な信長像を否定する。正親町天皇を頂点とする朝廷機構の中で統治していたかもしれないとの見方を示す。朝廷側から「三職推任」(関白、太政大臣、将軍。特に将軍)を打診され、あいまいに対応しているうちに<本能寺の>6月2日を迎えてしまった<、と>。
 経営学者である入山章栄・早稲田大ビジネススクール准教授は「センスメイキング理論」という理論を引き合いに出し、「信長が『天下布武』以後のビジョンを光秀らと共有していなかったのは重大なミスだったのかもしれない」と指摘する。・・・
 それまで「天下布武」「天下静謐」と明確な目標を掲げ、光秀らビジョンを共有できる人材を実力主義で途中採用してきた信長だったが、最後になって落とし穴にはまったのかもしれない。」
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO2841572022032018000000/ (太田)

(続く)