太田述正コラム#12090(2021.6.19)
<藤田達生『信長革命』を読む(その25)>(2021.9.11公開)

 「<1581>年正月に京都で空前の軍事パレード–馬揃<(注65)>(うまぞろえ)–を挙行したが、家臣団のほかに近衛信伊(従二位内大臣)・正親町季秀(おおぎまちすえひで)(正三位権中納言)・烏丸光宜(みつのぶ)(正三位権中納言)・日野輝資(てるすけ)(正三位権中納言)・高倉永孝(ながたか)(従四位上右衛門佐)といった、前途有望な青年公家たちが参加している。

 (注65)「<1581>年2月28日・・・、織田信長が京都で行った大規模な観兵式・軍事パレードである。京都内裏東にて行われた。丹羽長秀や柴田勝家を始め、織田軍団の各軍を総動員する大規模なものだった。正親町天皇が招待され、近衛前久ら馬術に通じた公家にはパレードへの参加が許された。
 このパレードの目的は、天下布武を標榜する織田信長が、周辺大名を牽制し、力を誇示するためと考えられている。これにより、信長は京都の平和回復と織田家の天下掌握を内外に知らしめた。また、天皇や公家を招待した理由については、朝廷を威圧するためという説と、天皇側から査閲を希望したという説とがある。
 また、馬揃えの会場となった内裏の東側は陣中と呼ばれる区域内で、古代の大内裏の内側に準じて牛車宣旨の無い者はいかなる者も馬を含む乗り物を乗り入れさせることが禁じられていたが、この馬揃えでは陣中で開催されることについて問題視された形跡はなく、これを天皇や公家が馬揃えの実施に好意的であったと見る考えもある。・・・
 羽柴秀吉はしかし、不参加である。羽柴は当時、播磨国姫路城に在って中国地方での対陣中であったため、自身が配下武将を引き連れて参加することはできなかった。これを大変悔しがっていたと伝わり、長谷川秀一に宛てた書状では、せめて当日の内容や雰囲気だけでも知りたい、と書いている。
 河内国の三好康長、多羅尾光俊や池田教正、野間長前らは四国出兵の用意のために参加を免除されている。
 その他にも、摂津伊丹城の池田恒興や丹後の細川藤孝らは、それぞれの居城守備として参加を免除されているが、池田細川両氏に対して、子息を参加させるよう要請が出されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BE%A1%E9%A6%AC%E6%8F%83%E3%81%88
 「馬揃え<で>・・・歴史的に著名なのは、1184年に源義経が駿河国浮島原で行ったとされる馬揃え、1581年に織田信長が京都で行った馬揃え(京都御馬揃え)、1633年に徳川家光が江戸郊外品川宿で行った馬揃え、1863年に松平容保が孝明天皇の勅命を奉じて行った馬揃え(会津藩天覧馬揃え)がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E6%8F%83%E3%81%88

⇒「<1581>年正月」は「二月末」の誤りですが、藤田は、「これ以前に安土城下などで行われた馬揃え(左義長)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BE%A1%E9%A6%AC%E6%8F%83%E3%81%88
と混線したのではないでしょうか。(太田)

 彼らは、家職で仕えるのではなく参陣奉公し扶持も給与されていた。
 あたかも足利将軍が日野・正親町三条・烏丸・飛鳥井・高倉・広橋の六家の武家昵懇公家衆<(注66)>を従えて出陣したように、信長は上流公家たちと主従関係を築いていたのである。

 (注66)昵懇衆(じっこんしゅう)=昵近衆(じっきんしゅう)=昵懇公家衆(じっこんくげしゅう)=昵近公家衆。「室町幕府の3代将軍である足利義満が太政大臣となって公家社会内部に家司・家礼を編成するようになり、それが譜代化して6代将軍・足利義教の頃に確立された。室町幕府の時は烏丸家・日野家・広橋家・飛鳥井家・勧修寺家・上冷泉家・高倉家・正親町三条家の8家が該当し、白川家と阿野家も1代限りでこの扱いを受けた記録がある。彼らは室町第(花の御所)に出仕して、将軍の外出に供奉したり、武家伝奏の補佐(執奏申次)を行ったりして、朝廷と幕府が深く結びついた室町幕府を支える実務官僚としての要素もあった。室町幕府の昵懇衆は15代将軍・足利義昭の時代まで確認できるものの、幕府に代わって政権を担った織田信長・豊臣秀吉は昵懇衆にあたるものを編成しなかった。
 徳川家康が江戸幕府の初代将軍に任じられると、室町幕府の昵懇衆だった家の人々を中心にその参内に扈従し、再び昵懇衆が形成されるようになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%B5%E6%87%87%E8%A1%86

⇒「扶持も給与されていた」・・近衛前久も?・・というのが事実であれば、面白いですね。
 「天皇や公家を招待した理由については、」私は、「天皇側から査閲を希望したという説」乗りですが、藤田が意図的にかうっかりしてか、落とした、近衛前久、は、信長の親友であるところの、この時点では具体的官職に就いていなかったけれど、准三后で従一位の高位の人物であって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85
彼や、彼の嫡子で内大臣で従二位だった信伊が、意識においても実態においても、信長の従者(部下)であったはずがありません。
 そして、この前久が、参加公家衆全体を率いていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BE%A1%E9%A6%AC%E6%8F%83%E3%81%88 前掲
というのですから、この2人以外の参加公家衆全員もまた、信長の従者(部下)としての参加ではなかった、ということにならざるをえないのではないでしょうか。(太田)

 信長は、天皇家と一体化することで、実質的な王権簒奪・新王朝創出を画策していたとさえ推測されるが、このような前途有望な青年公家層の編成も、そのための布石ともみられる。・・・」(207~208)

⇒従って、こんなことは、藤田の妄想でしかない、と、思います。(太田)

(続く)