太田述正コラム#12096(2021.6.22)
<藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その1)>(2021.9.14公開)

1 始めに

 引き続き、同じ、藤田達生による表記(2014年)を取り上げます。

 ハンドルネームmiddrinnさんが、この本の批判をしているので、最初に紹介しておきます。
https://yomunjanakatsuta-orz.blog.ss-blog.jp/2016-03-02

2 『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む

 「・・・信長と不仲になった時期においても、義昭は諸大名に対する軍勢動員権をはじめとする将軍固有の権限を保持していた。
 幕府が滅亡したとされる<1573>年以降も、義昭の指令によって同盟させ結成された包囲網が信長を何度も窮地に追い込んだことは周知の史実である。
 たとえば、義昭は上杉氏・武田氏・毛利氏などの東西の有力な戦国大名たちを軍事動員できたし、彼の意向を受けた大坂本願寺派が決起し、諸国の一向一揆に檄を飛ばしている。
 またこの時期、歴代将軍と同様に、義昭が京都五山をはじめとする有力臨済宗寺院の住職の辞令である公帖<(注1)>(こうじょう)(公文<(注2)>(くもん))を発給し続けていたことも看過できない。

 (注1)「禅宗寺院のうちの、五山、十刹、諸山などの官寺およびそれに準ずる寺院の住持任命の辞令。院宣、綸旨、檀那帖などによることもあったが、大部分は幕府の御教書形式の公帖によった。なお室町中期以後は関東の十刹、諸山(のちには建長寺をのぞく関東五山も)は鎌倉府が任命した。また、公帖を受けて実際に入寺する場合と、官銭成(かんせんなり)、功徳成(くどくなり)などの、実際には入寺しないで住持の資格だけを与える場合・・名目上の住持を任命する売官制度・・があった。後者は坐公文・居公文(いなりくもん)という。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E5%B8%96-62290
 (注2)「<律>令制下、諸官司が出す公文書の総称。諸国から中央に提出した大計帳、正税帳、朝集帳、調帳は四度公文といい、特に重視された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E6%96%87-56117
 
 信長は、ついにこの権限を奪取しえなかった。
 明治時代以来の「信長中心史観」に染まっていては、これらのうごかしがたい事実すら、正当に評価することができない。
 ここに、初発から信長の傀儡とみなされ、亡命後は歴史の舞台から退場したかにみられてきた将軍義昭とその幕府については、再検討されねばならないのである。

⇒思い切って単純化して言いますが、信長が将軍就任を希望しなかったため、義昭が将軍職を解任されなかったというだけの話であり、三好氏が、その部下を含む諸敵から攻撃を受け、ついには信長にとって代わられたように、信長に対しても、その部下を含む諸敵から攻撃が行われた、ということであって、その中で、義昭の果たした役割など取るに足らなかった、で、終わりでしょう。(太田)

 戦国の梟雄たちは、下剋上の時代にふさわしい新たな権威秩序を構築するようなことはしなかった。
 成り上がり者の大名ほど、将軍はもとより管領職や守護職など旧来の権威にすり寄り執着したからである。
 この点で尾張統一から美濃制覇までの青年信長も、他の戦国大名とさほど変わらなかったのだ。
 管領家で尾張守護家でもあった斯波氏を利用したり、尾張統一を目前に控えた<1559>年・・・には上洛して第十三代将軍足利義輝に謁見している。
 将軍に直属する有力大名となることで、はじめて尾張を中心とする所領支配の正当性が確保されると認識したからである。
 織田尾張守と称したのも、この頃のことだった。
 戦国時代、確かに将軍権力は衰退していたが、それと将軍権威の軽重とはパラレルな関係ではなかったのだ。」(6、8)

⇒何かを成し遂げようとする者が、できるだけ敵や潜在敵だって利用しようとするのは当然です。
 その「何か」、について、他の戦国大名達の中には、信長の日蓮主義に相当するようなものを抱懐していた者は殆どいなかったでしょうが、だからといって、そんな信長に、最初から、他の戦国大名達とは異なる方法での下剋上を求めるのはお門違い以外の何物でもないでしょう。(太田)

(続く)