太田述正コラム#12098(2021.6.23)
<藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その2)>(2021.9.15公開)

 「・・・天下統一戦とは、極端にいえば、織田信長以外の武将は誰も考えなかった「非常識」な戦争だった。・・・
 畿内近国を支配し将軍を追放するほどの実力を誇った三好長慶さえ、全国制覇など考えたこともなかっただろう。・・・

⇒(次のオフ会「講演」原稿で記しますが、)例えば、斎藤道三や三好長慶や松永久秀も、信長同様、日蓮主義者であって、当然、皆、「天下統一」を目指したところ、力量不足と時節の悪さ、等、から前二者は成功に遠く及ばぬまま、また、信長も成功寸前で、その生涯を終えた、のであって、天下統一を目指すことは、決して「非常識」なことなどではなかった、と、私は考えています。(太田)

 なぜならば、近年の研究によって今川義元<(注3)>も武田信玄<(注4)>も天下をねらって西上戦を始めたのではないことが明らかになりつつあるし、諸大名にとって本領支配の安定化には直接関わらない遠征を始める必然性など、どこにもなかったからである。

 (注3)「客観的な情勢と義元の従来の領土拡大の方針から見て、<1560年の尾張に向けて>の軍事作戦が<上洛をねら>って<、すなわち、天下をねらって、>行われたものとは考えにくい。実際、義元が・・・1559年・・・に発行した出陣準備の文書にも「上洛」の文字はない。また、上洛が目的であるならば、事前に越前国の朝倉氏や南近江の六角氏などに協力を要請するはずであるが、そのような書簡も残されておらず、この当時将軍であった足利義輝と義元との間に何らかのやり取りがあったとする史料もない。ちなみに合戦の直前に、織田信長は僅かな供を連れて足利義輝に謁見するという形での上洛は行っている。・・・
 大石泰史は上洛説は成立し難いとした上で、非上洛説を以下の6つに分類している。
1 尾張攻撃説
2 伊勢・志摩制圧志向説
3 尾張方面領土拡張説
4 旧名古屋今川領奪還・回復説
5 鳴海城・大高城・沓掛城封鎖解除・確保志向説
6 三河・尾張国境の安定化説
 その上で、大石は2・3・4は裏付けとなる史料が不足しているために安易に肯定は出来ず、1・5・6はいずれも関連づけが出来るために敢えて1つに絞る必要は無い、との見解を述べている。
 <これに対し、>小林正信は義元の出兵を古河公方を推戴した三国同盟による室町幕府に対する挑戦とであったと捉え、上洛目的説を改めて提唱した。将軍・足利義輝を支持する長尾景虎が信長に続いて1559年に上洛したことにより牽制された義元の出兵は1年遅れ、迎撃準備を整えた信長により敗死。その後の景虎による関東出兵も、三国同盟に対する幕府の報復であると位置づけた。・・・
 <ちなみに、かつて>尾張は今川一門今川仲秋(尾張守護)の守護任国であり、末裔の今川那古野氏(室町幕府奉公衆の今川氏)が那古野城を構えていた。義元の弟である今川氏豊は、この今川一門の家に養子入りし、家を継いだ<が、>[1532年<または>・・・1538年<に>]那古野城は織田[信秀]に奪われ・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E5%8F%A4%E9%87%8E%E5%9F%8E ([]内)
 (注4)「上洛説は渡辺世祐、奥野高廣、磯貝正義、染谷光廣、小和田哲男、柴辻俊六、平山優らによる所論があり、遠江領有を目的とした局地戦説は高柳光寿、須藤茂樹]などがある。なお上洛説においても上洛を前提とした信長打倒作戦であったとする見解や、局地戦説においても上洛を最終目的とする見解も見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E4%B8%8A%E4%BD%9C%E6%88%A6

⇒「注3」、「注4」を踏まえれば、少なくとも、信玄について「天下をねらって西上戦を始めたのではないことが明らかになりつつある」とは言えないでしょう。(太田)

 集権化<についても>、戦国時代末期になってはじめて信長が意識的に推進した政策だったことが重要なのだ。

⇒中央集権化だって、日蓮主義者たる武将であれば、誰でも目指したはずであるところ、長慶や道三は、領国における集権化、という、全国の中央集権化の緒の緒にすらつけず、信長ですら、領国の集権化の緒についただけに終わった(典拠省略)ところです。
 なお、武将ではありませんが、戦国時代に入るよりもずっと前に、日蓮主義者だった後醍醐天皇が、「統一」された「天下」を鎌倉幕府から受け継ぐことに成功するとともに、中央集権化の緒につくことにも一瞬ながら成功しています(典拠省略)。(太田)

 天下統一とは、天下人率いる武士団の精神構造も含めた価値観の転換があってなしえたもので、信長や秀吉の改革については奇跡的とさえいえるのではないか。・・・
 これに関わって重要なのが、信長の天下統一戦の契機が天皇や将軍という伝統的な公儀権力との接触にあったとする見方である。
 下剋上の時代にあって、なおも伝統権力は国家統合の権威の象徴として、一定の役割を果たしていたのだ。
 独立的な地域国家がいくら版図を拡大したところで、決して天下統一の動きには結びつかないのである。」(12~13)

⇒この藤田が紹介した「見方」が正しいとすれば、「天皇や将軍という伝統的な公儀権力との接触」を続けていたところの、三好長慶が、天下統一を「考えたこともなかった」理由を、藤田は併せて説明しなければならないはずですが、ハテ。(太田)

(続く)