太田述正コラム#12102(2021.6.25)
<藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その4)>(2021.9.17公開)

 「・・・<1561>年春には、今川氏の傘下から離脱し三河岡崎城(愛知県岡崎市)に帰還した徳川家康と、尾張清<洲>城(愛知県清須市)で三河刈谷(かりや)城(「愛知県刈谷市)城主水野信元<(注5)>の仲介により同盟する。

 (注5)?~1576年。「1543年・・・、父・忠政の死去を受け水野宗家の家督を継ぎ、尾張国知多郡東部および三河国碧海郡西部を領した。 ・・・異母妹に於大の方がおり徳川家康の伯父にあたる。・・・父・忠政は松平氏と共に今川氏についていたが、信元が緒川水野の家督を継いで間もなく松平広忠に嫁いだ信元の妹の於大の方が離縁されていることから、家督を受け継いだ当初より尾張国の織田氏への協力を明らかにしていたと考えられる。・・・
 <ちなみに、>妻の実家である桜井松平家は宗家の広忠と関係が悪く、一方で織田氏とは婚姻関係にあった<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E4%BF%A1%E5%85%83

 これによって、東からの脅威が消滅するとともに、以後、美濃・伊勢そして近江から京都へと一貫して続けられる西国方面への侵攻が開始されるのである。

⇒藤田は、現在の清「須」という地名に引きずられて、清須城、清須同盟、と、ミスプリをしてしまっています。
 どちらかと言えば、出版社の校正ミスですが・・。(太田)

 谷口克広<(注6)>氏によって「清<洲>同盟」<(注7)>として注目されるようになった軍事同盟であるが、この時期にしばしば結ばれた戦国大名間の合従連衡とは異なり、20年間もの長期にわたって維持されたことに大きな意義があった。・・・

 (注6)1943年~。横浜国大教育学部卒、中学教諭、横浜市役所、再び中学教諭、等を経て、現在は岐阜市信長資料編集委員会委員。著書の一つに、『信長と家康:清洲同盟の実体』(学研新書、2012年)がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E5%85%8B%E5%BA%83
 (注7)「1560年・・・、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長によって討たれると、それまで今川氏に従属していた徳川家康(当時は松平元康)は、・・・今川家から自立を図ったとされる。また、この岡崎城は家康の父祖伝来の居城であり、その後今川軍に抑えられていたが、桶狭間の敗戦を聞いた今川軍は城を放棄して駿河方面に撤退していた。三河の支配権を取り戻すべく空き城となった岡崎城を取り戻した家康はその後、今川氏と同族の吉良氏などの三河における親今川勢力を攻撃しはじめる(善明堤の戦い及び藤波畷の戦い)。これに怒った今川義元の子今川氏真は、・・・1561年・・・に家臣の吉田城代小原(大原)肥前守鎮実に<対処を>命じ<る>・・・。・・・東の駿河国の今川家と敵対関係となった家康は、西の隣国である尾張国織田家との接近を考え、当時は家康の片腕であった石川数正を交渉役として、織田信長との同盟を模索する。
 一方の信長も、美濃の斎藤氏と交戦している経緯から家康との同盟を考えており、織田氏と先に同盟(織水同盟)を結んでいた家康の母方の伯父に当たる水野信元が家康を説いた。
 しかし、両家は織田信秀(信長の父)と松平清康・広忠(家康の父)父子が宿敵関係で戦っていた経緯から、両家の家臣団の間での遺恨も強く、同盟はなかなかまとまらなかった。桶狭間の戦いから1年後の・・・1561年・・・には石ヶ瀬において両者の間で小競り合いが起きている。
 なお、近年出された説として、家康の岡崎城帰還は信長による三河侵攻を警戒する今川氏真の許しを得たものでこの時点では家康も今川氏から離反する意思は無かったが、氏真が織田軍と戦って三河を防衛するよりも上杉謙信に攻められた同盟国の武田氏・後北条氏の救援(→小田原城の戦い (1560年))を優先したために、今川氏の援軍を得られずに苦境に立たされた家康が今川氏から離反して織田氏と結ぶことで領国の維持を図ったとする説も出されている。
 正式に同盟が締結されたのは桶狭間の戦いから2年後である。このとき、家康が信長の居城である清洲城を訪問して、信長と家康との間で会見が持たれた上で同盟が締結されたことから、これは清洲同盟と呼ばれているのである。
 [<但し、>近年の研究ではこの会見は存在しなかったとの見方が強<い。>
https://sengoku-his.com/262 ]
 <1561>年以降に甲斐国の武田氏はそれまで同盟国であった駿河国今川氏との関係に隙間風が吹き始め、<1568>年末には武田・今川の関係は手切となり今川領国への侵攻が開始されるが(駿河侵攻)、武田氏は織田氏と婚姻同盟を結んでいるほか家康とも外交関係をもち、今川領国の割譲をもちかけている。<1568>年からの駿河侵攻は武田氏と相模の後北条氏の同盟解消も招き、武田と家康の同盟関係も齟齬をきたし、<1569>年に家康は武田氏との協定から離反した。なお、この際に武田信玄は信長を通じて家康の懐柔を図っているが家康は武田との同盟再考に転じず、この事から信長と家康の関係は同盟関係でありながら対等的なものであったと考えられている。
 織田信長は<1567>年に足利義昭を奉じて京都に上洛したときや朝倉氏追討戦、<1570>年の姉川の戦いなどで家康は信長に援軍派遣し軍事的協力を行っているが、<1571>年末に武田氏は今川領国を確保すると相模後北条氏との同盟を回復し(甲相同盟)、遠江・三河方面への侵攻を行い家康との対決傾向に入っていった。
 信長と武田氏は同盟関係にあったが武田氏と家康は<1569>年時点で手切となっており、信長は武田氏と友好的関係の維持に努めつつも家康に配慮して武田との関係には距離を置き、家康は武田氏に対抗するため越後上杉氏との連携や信長への武田との断交を持ちかけていた。
 <1572>年10月に武田氏<(信玄)>は遠江侵攻を行い三方ヶ原の戦いにおいて家康を撃破した。この頃には信長と将軍足利義昭との関係が悪化し、<1573>年に入ると信玄は将軍義昭の迎合した信長包囲網に呼応して織田領への侵攻を開始し(西上作戦)、武田氏と信長の関係は手切となる。
 <この>西上作戦が信玄の急死により中止されると信長は包囲網を打破し、家康は勢力を回復し三河・遠江において武田方への反攻を開始し、<1575>年には織田・徳川連合軍と武田氏との間で行われた長篠の戦いにおいて武田氏に打撃を与える。 長篠における大勝を経ても家康は対武田に悪戦苦闘が続いたが、信長は室町幕府をはじめ、反信長勢力を次々と滅ぼして畿内・西国・北国へと統一政策を行う。このため、信長と家康の関係は共通の利害を消失し対等な盟友と関係は形式的なものとなり、実質的に家康は信長に従属する立場になり家康もその立場を甘んじて受け入れた。なお、やはり信長と盟を結んでいた水野信元も家康と同様に立場を弱くし、<1575>年12月・・・には信長から武田勝頼との内通を疑われ討伐された。このとき信元は甥である家康を頼って岡崎に逃げたのだが、家康は信長の命で彼を殺害した。この出来事が3者の同盟における力関係を端的に示している。
 ・・・1578年・・・に上杉謙信が死去すると、信<長>の脅威は完全に無くなることとなり、この頃になると、信長の領土は畿内の大半から北陸・中国・四国・東国の一部を支配するという広大なものとなっていた。それに対して家康は、三河と遠江の二ヶ国だけしかなく、もはや家康の力など必要としなくても信長には天下を統べる実力を保持していた。
 また、上杉謙信の死後には越後で御館の乱が発生し、養子の上杉景勝と上杉景虎が跡目を争った。武田勝頼は乱に介入し景勝と同盟を結び両者の和睦を調停するが、景勝が乱を制し景虎を滅ぼしたことにより景虎を支持していた北条氏との甲相同盟は破綻し、・・・1579年・・・9月には北条・徳川間で対武田の同盟が結ばれている。
 この時期、家康は嫡男・松平信康とその生母である築山殿を処刑している。
 ・・・1582年・・・、信長・家康の連合軍は武田領への本格的侵攻を行い、武田氏を滅ぼした。武田遺領の分割において、信濃は織田家臣の森長可と毛利秀頼、甲斐本国は河尻秀隆、上野国は滝川一益にそれぞれ与えられ、家康には駿河一国が与えられた。この時、家康が安土城にいる信長のもとに赴いて、信長から賜るという形で与えられており、もはや両者の関係が全く対等ではなくなっていた事がうかがえる。形式的には家康は同盟者であり織田家臣ではなかったものの、実質的には信長の臣下の立場になっていた。・・・
 <ところが、同>年6月、本能寺の変が起こり、信長が横死した。・・・
 この同盟は信長にとっては、家康を対今川・武田の「盾」として後顧の憂いなく美濃攻略・上洛に成功して西方に勢力拡大に乗り出す事が出来るようになった。一方家康は今川・武田・北条など自国よりも経済力、兵力に勝る勢力が相手だったこともあり、信長程の勢力拡大こそは果たせなかった。しかし、信長からの援助を取り付けられたこともあって、今川氏、武田氏といった強敵に滅ぼされることもなく、最終的には彼等から領地を奪っている。また苦境においても愚直にも西の信長への信義・忠誠を貫いた姿勢が内外における名声を高めて後年の天下取り(具体的には征夷大将軍の宣下)に役立ったと言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B4%B2%E5%90%8C%E7%9B%9F

 極端に表現するならば、信長にこうした前提条件がなければ天下統一はなかったといってもよい。」(21~22)

⇒本当にそうでしょうか。

(続く)