太田述正コラム#12104(2021.6.26)
<2021.6.26東京オフ会次第>(2021.9.18公開)

1 始めに

コロナ情勢も与っているのでしょうが、今回の東京オフ会の出席者は私を除き6名、うち1名はSkype参加、という小規模なものになりました。
 なお、今回は、レジメと資料集を兼ねた文書をTV画面に映し出して「講演」を行いました。
 これは、有料読者の皆さんには、ダウンロードできるようにしたいと思っています。
 また、次回の東京オフ会は、9月25日(土)になりました。

2 質疑応答(Oは私。順不同)(A、B等は、必ずしも特定の参加者を示しているわけではない。)

O:次回、もう少し詳しく説明するが、三好長慶は、12歳の時に早くも政治的手腕を発揮した早熟の天才であり、日蓮主義者であった可能性が高く、かつ、その生涯の間に、京都が存する山城を含む10数か国を支配下ないし勢力圏とすることに成功した人物だが、惜しむらくは、信長と違って、検地、城割、楽市楽座、のような、新しい統治政策を打ち出すことがなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6
A:そもそも、三好長慶なんて教科書で出てこなかった。
O:私の頃は、足利(将軍)←細川(管領)←三好←松永久秀、という典型的な下剋上、ということだけは教わったものだ。
 但し、久秀に関しては、長慶存命中は、下剋上的な言動は全く見られないというが・・。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80
 ところで、帰蝶(濃姫)が、信長と結婚してからの消息がつかめない、いつ亡くなったのかすらはっきりしない、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%83%E5%A7%AB
というのは不思議でならない。
 信長の嫡男・・帰蝶には少なくとも男の子はできなかった(上掲)・・の信忠が、「<1576年年>、信長から織田家の家督・・・を任され<ると>、信長正室濃姫を養母として岐阜城主とな<り、>また、濃姫の弟である斎藤利治が信忠付きの側近(重臣)となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BF%A0
ことからも分かるように、彼女が隠然たる影響力を織田家中で維持し続けたことは確かだというのに・・。
B:天皇家は、そもそも、どうして鎌倉幕府を倒そうと決意したのか。
O:承久の乱の結果、上皇が三人も配流され、「朝廷は幕府に完全に従属し<、>・・・幕府は・・・、皇位継承も管理するようにな<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1
ということ自体が大変な屈辱であった上に、鎌倉幕府を事実上取り仕切っているのが北条氏という、氏素性的に「下賤」な輩ときたものだから、倒幕したいと思ったのは当然だろう。
C:私は、日本史を教わった時、どうして、政治史と文化史を切り離しているのか、疑問に思った。
 特定の時代の歴史は、政治と文化を併せて俯瞰しなければ、その全体像を把握できないはずだからだ。
O:確かに、歴代天皇に関しても、今回取り上げた時代だけでも、政治面で大きな足跡を残した天皇が、文化面でも巨人であった事例が何人も出てくる。
D:今回の「講演」原稿の冒頭に登場する7人の天才達だが、課題の定立者とその実施者が交互に出てくるところ、最後の杉山元が一番文化的な香りが乏しい上、美しくない(醜男である)ように思う。
O:そうかなあ。
 (写真時代より前の天才達の肖像画の信憑性や出来栄えには疑問符がつくし、他方、経済成長や経済動員に係る経済学徒としての杉山のレベルは相当高かったと思われる(コラム#省略)ところ、昭和戦前期時点における経済学は、かつての歌道や茶道に勝るとも劣らぬ文化(教養)と言えるのではないだろうか。) 
E:太田さんには、せひ、日本通史を戦後までカバーしてもらいたいが、60年安保と68年の東大闘争等の大学紛争とは何が違ったのか。
F:前者は日本共産党、後者は中核派/革マル派が担った。
O:私見では、参加(被動員)一般学生について言えば、前者は安保改正反対に藉口した学生レジャー、後者は大学改革要求に藉口した学生レジャー、であり、本質は同じだ。
F:明治維新後も、近衛家は日蓮主義を推進し続けたのだろうか。
O:続けた。
 近衛家はアジア主義の旗手になった(コラム#省略)わけだが、アジア主義なるものは日蓮主義そのものだ。
 もとより、日蓮主義の対象は全世界であるわけだが、アジア主義は、アジア≒世界の欧米の植民地/保護国群、を、欧米から解放し、次いでそのアジアを復興させ、そのことが、ひいて欧米等をも裨益させる、という、いわば、段階論的日蓮主義なのだ。
G:近衛文麿はアジア主義者だったのか。
O:もちろんだ。
 しかし、本日の「講演」原稿で取り上げた時代において、日蓮主義者に出来不出来があったように、アジア主義者にだって出来不出来があるのであり、近衛文麿は、不出来なアジア主義者だったが、その家柄と学歴だけで、首相の座に3回も就いた、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%86%85%E9%96%A3
悲喜劇的人物だった、というわけだ。