太田述正コラム#12106(2021.6.27)
<2021.6.26東京オフ会次第(続)>(2021.9.19公開)

A:安土城跡を訪問したことがあるのだが、交通の便が極めて悪い所にある。
 当時、城内の道幅が広いことには驚きつつも、寺院めいた建物があることに気付きながらも奇異の念に捉われることもなく、また、天主の展示を見たけれど、そこから信長の思想を探るといった発想が湧いてくることもなかった。
 とにかく、安土城を信長の思想を表したもの、と指摘したのは太田さんが初めてではないか。
 で、「講演」原稿案を事前に一読した時に、自分自身でも考えてみた。
 最上階の襖絵に登場する老子だが、それは、治水、ひいては善政、の追求、と意味しているのではないだろうか。
 また、(同じく最上階の)襖絵に登場する孔門十哲図だが、当然、儒教を意味しているところ、それは、信長当時に、支那、そして日本、で流行っていた朱子学、が持ち上げていた孟子を具体的に意味しているのではないか。
 (つまり、惻隠の情や民本主義、の追求、を意味しているのではないだろうか。)

O:考えてみたい。

で、相当、やっつけ仕事的にですが、考えてみました。

一、「老子治水象徴」説について

 「「上善若水」<は、>・・・元は『老子』に登場する言葉です。・・・
 <それに>続<いて>・・・水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る、故に道に畿(ちか)し・・・<とか、>天下に水より柔弱なるはなし。しかも堅強を攻むる者、これによく勝るなきは、その以て之を易うる無きを以てなり。弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下、知らざるなくして、よく行うなし・・・<と>も書いています。・・・
 老子<は>、理想世界である「道」のあり方として、水を賞賛し、水の性質を人の生き方に結びつけてい<たので>す。・・・
 戦国・・・時代の治水名人といえば、武田信玄、加藤清正、成富兵庫茂安があげられます」
https://media.aqua-sphere.net/colum20190101/
 「中国においては「黄河を征する者は天下を征する」というような言い伝えがあるように、「治水 」が国を治めることに通づることであった。例えば 、司馬遷の『史記』にある「河渠書 、班固の『漢書』にある「溝洫志」など始め正史には治水 、河川、運河など土木に関することが重要な事柄 として記載されている。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs1990/15/0/15_0_375/_pdf/-char/ja
 「織田信長は・・・、人柱の代わりに石や木で作った仏を埋めることを開始しました。
 信長の配下であった、佐々成政もこれに習い、自分の名前を書き入れた石を埋めています。
 また、大きな石などを運ぶ際、信長はキレイな布で石を飾り立てたり、鳴り物を鳴らすことで祭り的な雰囲気を生み出しました。
 織田信長は自ら巨大な岩の上に乗って音頭を取り、大勢の人々を自然と土木工事へ参加させることに成功したのです。
 信長の住んでいた尾張は、木曾川などを始めとする河川が運ぶ土砂などが集まって出来た「沖積平野(ちゅうせきへいや)」で、湿地帯に囲まれた場所で暮らしていました。
 その為、水の利便さや脅威も知っていたのでしょう。
 彼が土木工事の概念を崩してくれたおかげで、戦国時代から治水事業を始めとする、インフラ整備という概念も根付き、知識を身に着けた武将や技術者が増えたことにより、江戸の礎にまでも繋がっていきます。・・・
 豊臣秀吉は、水を制し、そして大いに利用した人物と言えるでしょう。
 現在も大阪で利用される日本最古の「太閤下水」は、秀吉が整備を命じて作られた下水道です。
 また、現在は使用されていませんが、宇治川に作られた「太閤堤」も、伏見城築城の際、水陸交通の拠点にするべく作られた堤防でした。
 織田信長の元で働いていた豊臣秀吉は、土木工事の大切さを学んでいたのかもしれません。
 彼は、知識や技術を持つ人物達を重用し、土木技術を高め、金を惜しまず、人々の競争心も煽りながら様々な仕事を成し遂げて行きます。
 また水を多いに利用して、出世していくのです。
 秀吉が台頭を表し始めるきっかけは、美濃攻めの際に要所となった長良川の西岸にある墨俣(すのまた)に、たった一夜で城を築いたという「墨俣城」築城でした。
 彼は築城に必要な材木で筏を作り、大量の人夫を乗せて川の上流から流して運び、一夜で城を築いたと言われています。
 豊臣秀吉はその他に、敵の城を陥落させる為にも水を利用しました。
 毛利との対決中、毛利の配下であった備中高松城の城主、清水宗治を相手に、秀吉は水攻めで城を落としたのです。」
https://senjp.com/chisui/

 以上を手掛かりにしましたが、当時、一般に、治水で有名だったのは、武田信玄と豊臣秀吉であるところ、信長が信玄を顕彰するような「公案」を掲げるとは考えられず、かつまた、信長が秀吉が治水で実績を残すことまで予想できたはずがない一方、信長生存中に、彼によるところの、治水の実績も、治水に係る土木工事の実績も、なく、部下の秀吉が水を武器として使った実績、や、同じく部下の佐々成政がその領国の越中で堤防を築いた実績、
https://www.mlit.go.jp/river/pamphlet_jirei/kasen/rekishibunka/kasengijutsu11.html
しかないことが、「老子治水象徴」説の弱点のように思います。

二、「儒教=孟子」説について 

 「孟子は儒家の最も主要な代表的人物の一人である。しかし、孟子の地位は宋代以前にはあまり高くなかった。中唐時代に韓愈が『原道』を著して、孟子を戦国時代の儒家の中で唯一孔子の「道統」を受け継いだという評価を開始し、こうして孟子の「昇格運動」が現れた。以降孟子とその著作の地位は次第に上昇していった。北宋時代、神宗<当時>の・・・1071年・・・、『孟子』の書は初めて科挙の試験科目の中に入れられた。・・・1083年・・・、孟子は初めて政府から「鄒国公」の地位を追贈され、翌年孔子廟に孔子の脇に並置して祭られることが許された。この後『孟子』は儒家の経典に昇格し、南宋時代の朱熹はまた『孟子』の語義を注釈し、『大学』、『中庸』と並んで「四書」と位置付け、さらにその実際的な地位を「五経」の上に置いた・・・
 その説くところによれば、人間には誰でも「四端(したん)」が存在する。「四端」とは「四つの端緒」という意味で、それは「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)・「羞悪」(不正や悪を憎む心)・「辞譲」(譲ってへりくだる心)・「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)と定義される。この四端を努力して拡充することによって、それぞれが仁・義・礼・智という人間の4つの徳に到達すると言うのである。だから人間は学んで努力することによって自分の中にある「四端」をどんどん伸ばすべきなのであり、また伸ばすだけで聖人のような偉大な人物にさえなれる可能性があると主張する。・・・
 孟子は領土や軍事力の拡大ではなく、人民の心を得ることによって天下を取ればよいと説いた。王道によって自国の人民だけでなく、他国の人民からも王者と仰がれるようになれば諸侯もこれを侵略することはできないという。・・・
 孟子は「民を貴しと為し、社稷之(これ)に次ぎ、君を軽しと為す」(盡心章句下)、つまり政治にとって人民が最も大切で、次に社稷(国家の祭神)が来て、君主などは軽いと明言している。あくまで人民あっての君主であり、君主あっての人民ではないという。
 <つまり、孟子は、>民本<思想を唱えたわけだ>・・・
 孟子が湯武の放伐を正当化したのは、あくまでそれが天命によってなされたからであり、もし天命によっていなければ、つまり君主が不仁不義でなければただの簒奪となる<、と、説いたのだ>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90

 上掲のようなことを信長が訴えたかったのであれば、少なくとも、孟子が入っていない「孔門十哲」図ではなく、入っている「四聖」図
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E9%96%80%E5%8D%81%E5%93%B2
を彼は採用していたはずだと思います。

三、 全般

 最上階(6階)だけに注目して解釈するのではなく、5階・・内部(仏教)と外観(八角形)・・を併せ、総合的に解釈すべきだ、というのが私の主張であるわけです。

四、 余談

 ところで、以上を調べている時に、「日蓮聖人立正安国論に曰く「国を失い、家を滅ぼさば、何れの処にか世を逃れん。汝すべからず一心の安堵を思わば、先ず四表の静謐(せいひつ)を祈るべきものか」」
https://honkyoji.jp/2007/01/post-108.html
という文章に遭遇しました。
 国は令制国でも日本国でもなく、世界の諸国の意味でしょうし、四表(しひょう)とは「四つの方角。四方。転じて、世の中。天下。」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%9B%9B%E8%A1%A8/
の意味であって、「世の中」「天下」もまた日本に限定されるわけもなく、そう受け止めると、これまた、日蓮主義を短い文章で表現していますね。