太田述正コラム#12116(2021.7.2)
<藤田達生『信長革命』を読む(その29)>(2021.9.24公開)

 「・・・<1584年の>小牧・長久手の戦いとは、「安土幕府」を継承しようとする信雄と、「大坂遷都・将軍任官」によって「大坂幕府」をめざす秀吉との「天下分け目の戦い」と規定すべき大規模戦争だった。・・・

⇒「大坂遷都・将軍任官」という雑音を消音した上でですが、私の見方は、「安土幕府」ならぬ、信長政権を信雄が引き続き継承し続けるのか、秀吉が代わって継承するのかを決する「天下分け目の戦い」だった、というものです。
 信雄は信長の次男ですが、秀吉は秀吉で、信長の四男の秀勝を養嗣子としていましたし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%9B%84
本能寺の変の際に信長と共に殺害された信忠とは違って、日蓮主義教育を施されていた形跡がない信雄よりも、日蓮主義者たる信長の形骸に接し続け、かつまた、同父母姉に後に日蓮宗尼僧・日秀となった智・・秀次の母・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%A7%80%E5%B0%BC
を持っていた秀吉の方が、日蓮主義者としては筋金入りであったことを思い起こしてください。(太田)

 信雄の臣従が表明されたのは、彼が1585年2月26日に上洛し秀吉に対面した時点である。
 <1585>年3月1日に<、その>秀吉は正親町天皇から太刀を下賜された。
 引き続いて秀吉の仲介のもと、信雄の従三位権大納言への任官が決定する。・・・
 なお後に秀吉は、九州攻撃(<1587>年)・小田原攻撃(<1590>年)・実現しなかったが自らの朝鮮出兵(<1593>年)の出陣日をすべて3月1日と定めたが、それは彼がこの日を事実上天下人に就任した記念すべき佳日と意識していたからにほかならない。・・・

⇒事実だとすればですが、ここも、面白いですね。(太田)

 <1585>年内に執行された中国・四国・北国国分<(注71)>によって豊臣領の西と東の境界が決定し、中核的所領の枠組みが確定した。・・・

 (注71)「秀吉による国郡境目相論の裁定、国境の再画定」
https://japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com/entry/20210310/1615348318

 国分に伴う各大名の国替は、ただちに始まった。
 たとえば筒井氏の大和から伊賀へのそれは、8月18日に坂本城で言い渡され、同月24日には全家臣団を引き連れ実施されるという迅速さだった。・・・
 この国替はその直前に国分・国替に処された長宗我部氏などの一部を除く全豊臣大名レベルで実施されたものであって、筒井氏のほか高山氏や中川氏などの、織田旧臣でそれまで本主権を安堵され与力的な関係にあった大名でさえ本領を失うことになる。
 さらに秀吉は、国替に関わる百姓の移動を禁止している。
 この国替を契機として、麾下の大名から本主権を剥奪し、政権の領土と百姓に対する支配権を絶対的なものとすることを企図したのだ。・・・
 <このように、>秀吉は麾下の全大名・領主を鉢植化させ、信長のめざした新たな国家づくりをシステム化して導入しようとした。・・・

⇒信長が着手したことを踏襲しただけのことです。(太田)

 <また、>信長は、検地によって石高に照応した軍役を家臣団に賦課し始めていた。
 秀吉はそれを徹底すべく、検地を通じて軍役や普請役の統一的な賦課基準を確立させた。

⇒同上。(太田)

 そのうえで、彼は決定した陣形に大名クラスの家臣名とその軍勢を書き付けた指令書である陣立書<(注72)>を実戦に導入し、戦局の推移に応じて作成・発給した。

 (注72)「戦いのために軍隊の配置や編成を概念的に記した文書。豊臣秀吉のころから江戸時代にかけて作成された。いつでも合戦(遭遇戦)に移行できるよう編成された陣押(行軍)の順に書かれていることが多い。総勢の規模にもよるが,独立した戦闘単位である手を先陣(先備),本陣,後陣(後備)などに配置し,備や手の大将と人数などを図式的に記している。」
https://kotobank.jp/word/%E9%99%A3%E7%AB%8B%E6%9B%B8-1176694
 「戦国期においては動員する兵力の規模によって異なるものの、一番備・二番備・前備・旗本備・左備・右備・後備の7段構えに分けることが多く、それらの構えの位置を大まかに示したものから、個々の構えごとに作成されてそれぞれにおける武将・兵力の配置を具体的に示したものまで存在する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A3%E7%AB%8B%E6%9B%B8

 これは、・・・小牧・長久手の戦いから確認されるが、軍隊内部に明確な命令系統と上下秩序を持ち込むものであり、軍事史上の画期といいうる・・・。
 このようにして、明らかに戦国時代の軍隊とは段階を画する新たな「公儀」の軍隊が誕生したのである。」(243~244、246~247)

⇒「注72」で引用したところの、「陣立書」の二つの説明は、上が秀吉政権以降のもの、下が戦国時代のもの、の説明、と、私は受け止めています。
 その違いは、上が平時から作成しておくべきもの、下が有事を目前にして、或いは、有事において作成されるもの、ではないか、とも。
 この陣立書に関しては、秀吉は、若干、新しいことをやった、と言えるのかもしれませんね。(太田)

(続く)