太田述正コラム#12144(2021.7.16)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その28)>(2021.10.8公開)

 「家康は、大阪へ移る直前の・・・1599<年>8月14日、参内<(注63)>する。

 (注63)「参内の回数は、義昭が5年間で3回、秀吉が15年間で20回、家康が16年間で10回であるが、信長の正式参内をそこに見出すことはできない。・・・
 義昭は、・・・<最初>の参内<以降、>参内しなくなるが、・・・1572<年>9月、信長は、義昭に宛てた17か条の異見書の第一条で、・・・義昭が参内を怠っていることを責めている。そこには、将軍たる者は年々の参内を怠ってはならないとする信長の認識が示されている。・・・
 家康についてみると、・・・<1599>年8月14日が最初の参内である。・・・<これは、>家康を天下人と扱ったものと評価したい。」・・・
 <さて、>信長は、・・・天皇が上位にあることを目に見える形で示す正式の参内の場を忌避したのではないだろうか。・・・
 「大うすはらい」において信長が宣教師に発した言葉、<朝廷との連絡にあたる>『五人の奉行』の設置と信長への直奏<要求>、日吉社の社務が「信長以判形致下知上社、不可及公家御沙汰旨申候也」<、つまり、信長が決したことを朝廷に持ち込むな、>と記したこと、<朝廷専権事項の>暦への挑戦、さらに信長が「予が(天)皇であり、内裏である」といったとするフロイスの言をみていくと、信長自身が、天皇の上位に自らを置いた政権構想を抱いていたとみることは十分想定されよう。」(藤井譲治「<研究ノート>信長の産台と政権構想」より)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/240259/1/shirin_095_4_671.pdf

⇒信長は、朝廷/征夷大将軍は日本国内外の顕在敵に対処する権限はあっても、国外の潜在敵に対処する権限まではないと考え、日蓮主義の国外遂行の際には、自らは超朝廷的存在たるべきであるとの信念の下、その態勢を構築するための日本統一の過程においても、極力、超朝廷的存在たろうと努めた、というのが私の見方です。
 これは、自分による日蓮主義の国外遂行が万一失敗した場合に、その累を日本国、就中、朝廷に及ぼさないようにするためだった、と。(太田)

 家康がはじめて参内したのは、秀吉の朝鮮出兵に従って肥前名護屋に下る直前の・・・1592<年>3月13日のことである。
 この時、家康は太刀と白鳥五羽を進上するが、この時の献の儀は三献ではなく二献であり、秀吉とは一段格差を設けたものであった。
 その後も秀吉に供奉しての参内はあるが、家康自身の秀吉同様の処遇での参内は、<この時>が初めてである。・・・
 形を見る限り、秀吉やそれ以前の室町将軍の参内と大きく変わらない。
 このことは、なお将軍宣下を受けていない家康を後陽成天皇が室町将軍や秀吉と同等に扱ったことを意味している。
 いいかえれば、後陽成天皇の側が、天下人の地位を家康が手にしたことを事実上認めたことになる。・・・

⇒ここまで来れば、もはや、日本国の大部分の人々にとって、そのことは明白になっていたはずなのに、それでもなおかつ、その天皇の意向に反し、翌1600年に、西軍が反家康を掲げたところの関ヶ原の戦いが、石田三成等主導で起こされたというのですから、ある意味、天皇制の危機が出来した、と言えるのかもしれません。(太田)

 1599<年>、家康は、私に婚姻を結ぶことが禁じられていたにもかかわらず、伊達、福島・蜂須賀氏との婚姻を約するなど、秀吉の定めた法度(はっと)や置目(おきめ)を無視する行動に出た。<(注64)>」(249~250)

 (注64)「ことが発覚し大老前田利家や豊臣奉行衆らによる家康追及の動きが起こる。一時は徳川側と前田側が武力衝突する寸前まで至ったが、誓書を交換するなどして騒動は一応の決着を見る。・・・1713年・・・成立の「関ヶ原軍記大成」では、この騒動の際伏見の家康邸に織田有楽斎(長益)・京極高次・伊達政宗・池田輝政・福島正則・細川幽斎・黒田如水・黒田長政・藤堂高虎・最上義光ら30名近い諸大名が参集したとしている。
 一方の大坂の利家の屋敷には毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・細川忠興・加藤清正・加藤嘉明・浅野長政・浅野幸長・佐竹義宣・立花宗茂・小早川秀包・小西行長・長宗我部盛親・岩城貞隆・原長頼・熊谷直盛・垣見一直・福原長堯・織田秀信・織田秀雄・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以・鍋島直茂・有馬晴信・松浦鎮信らが集まったとされる。
 翌年の閏3月に利家が死去すると、五奉行の一人である石田三成が加藤清正・福島正則・黒田長政・藤堂高虎・細川忠興・蜂須賀家政・浅野幸長の七将に襲撃される。三成は同行した佐竹義宣・宇喜多秀家の家老と共に、伏見城西丸の向かいの曲輪にある自身の屋敷に入った後、屋敷に立て籠もった。三成を襲撃した七将の動機は慶長の役末期に行われた蔚山の戦いの際、不適切な行動をしたとして長政らが戦後処罰されたのは、三成の縁者福原長尭が秀吉に歪曲して報告したためと主張する、彼等の不満にあったとされている。ただし忠興と正則は蔚山の戦いに参加しておらず、清正と幸長への処罰は発給文書類からは確認されない。
 家康・毛利輝元・上杉景勝・佐竹義宣・秀吉正室北政所らによる仲裁の結果、三成は奉行職を解かれ居城の佐和山城に蟄居となる。宮本義己は最も中立的と見られている北政所が仲裁に関与したことにより、裁定の正統性が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価しているが、一方で清正らの襲撃行為自体は武力による政治問題の解決を禁じた置目への違反であった。水野伍貴は当時七将が家康の統制下にあり、その行動は家康に容認された範囲内に限られていたとする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

⇒これは、家康の大坂城入城よりも前の話ですが、「注64」から、北政所が、仲裁名目で、事実上、家康のために便宜を図っていることが分かります。
 彼女は、後陽成天皇の意向を正しく忖度し、中立的立場に立とうと意を決していたのでしょう。(太田)

(続く)