太田述正コラム#12148(2021.7.18)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その30)>(2021.10.10公開)

 「関ヶ原の戦い直後の・・・1600<年>10月初め、家康は、公家門跡領・寺社領等の調査を始め<、>・・・翌<1601>年5月15日、・・・禁裏・女院等へ知行を進献したほか、門跡・公家への知行割を行った。・・・
 <なお、>こうした領知宛行<(あてがい)>に際して領知宛行状を出さなかったあるいは出せなかったのは、関ヶ原の戦い後の大名への論功行賞においても同様であり、実権は掌握したものの、形式的には豊臣政権の五大老という地位から完全には脱し切れていなかったためと考えられる。
 しかし見方を変えれば、この知行宛行は、この段階で家康が天下人としての地位にあることを実質的に天皇をはじめ公家門跡等に知らしめる効果を十分にもっていた。・・・

⇒舌を嚙んだような記述に困ってしまいます。
 そうではなく、公家門跡等は家康が天下人としての地位にあることを既に知っていたけれど、関ヶ原の戦いが起こったように、大名以下、一般の人々が必ずしも気付いてはいなかった状態が解消される「効果を十分にもっていた」でしょう。(太田)

 <1600>年12月19日に九条兼孝が関白と左大臣に還任された・・・。
 九条兼孝は、・・・1581<年>4月に関白を辞して以来、19年ぶりの還任である。
 さらにこの兼孝の関白任官は、秀吉が関白に任官して以来、後陽成天皇によって関白職は豊臣家の世襲とするとしてきた朝廷の方針の大転換であり、豊臣家にとっては、衝撃的な事柄であったはずである。・・・

⇒「はず」と言われても、少なくとも、豊臣家筆頭の北政所にとっては全く驚きはなかったでしょうし、何らかの典拠的なものが必要でしょう。(太田)

 <1602>年2月19日、後陽成天皇は、・・・徳川家康を源氏長者<(注67)>に補任しようとの意向を示した。

 (注67)「源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。一般的には、奨学院・淳和院の両別当を兼任するといわれているが、自身も源氏長者だった北畠親房の『職原鈔』によれば、奨学院別当のみでも要件を満たし、その場合、次席が淳和院別当となると解説している。・・・
 源氏長者は、当初は嵯峨源氏から出ていた<が、>・・・その後、嵯峨源氏を外祖父とする重明親王及び源高明(醍醐源氏)が源氏長者に任じられた。以後は源高明に代表される醍醐源氏と源雅信に代表される宇多源氏がかわるがわる補任された。
 やがて村上源氏の源師房(関白藤原頼通養子)が源氏長者となり、以後は村上源氏のなかでも師房子孫の嫡流とされた源雅定の子孫に継承され、久我<(こが)>・堀川・土御門・中院の四家から選ばれることとなった・・・。
 <ところが、>室町時代に堀川・土御門・六条の諸家は断絶し、中院家は長期の衰退を余儀なくされる。それにより、朝廷(北朝)への“不忠”を唯一免れた久我家の当主による現任上首の独占、ひいては源氏長者独占が確立した。
 武家源氏で源氏長者となったのは、清和源氏の足利義満が最初であり、・・・義満以後、源氏長者に就任した足利将軍は義持・義教・義政・義稙の計4名、長者の宣旨を受けなかった事実上の長者(淳和奨学両院別当のみ務めた。ただし、宣旨を受けたとする説もある)義尚を含めても5名であり、実態としては清和源氏足利家と村上源氏久我家が交替で務めており(在任は前者の方が長い)、他の源氏系公家の就任を排除することになった。戦国時代にはいると再び村上源氏久我家から源氏長者が任ぜられている。・・・
 徳川家康以降は、源氏長者は徳川家が独占した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E9%95%B7%E8%80%85

 ・・・山科言経(やましなときつね)・・・は、家康のいる伏見へと下り、後陽成天皇の・・・<こ>の意向を伝えた。
 それに対し家康は、「当年は慎の間」を理由に固辞した。・・・
 後陽成天皇は、・・・1603<年>正月21日、大納言広橋兼勝を家康のもとに派遣し、将軍補任の内意を家康に伝え・・・2月12日、・・・征夷大将軍に任じた。・・・
 同時に、家康は右大臣に昇進し、氏長者に補任され、牛車、随身兵杖を許され、淳和・奨学両院別当<(注68)>に任じられた。・・・」(255~256、259、262~263)

 (注68)淳和院(西院)別当は、「尼寺<の>・・・淳和院と嵯峨上皇・檀林皇后<(嵯峨上皇の皇后で淳和太后の生母)>・淳和太后(正子内親王)の陵墓、そして嵯峨上皇ゆかりの大覚寺と檀林皇后ゆかりの檀林寺の管理を行<う。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B3%E5%92%8C%E9%99%A2
 「881年<に>在原行平が創設した・・・奨学院には、皇親、諸王、皇別氏族(源氏・平氏・在原氏など)一族、すなわち王氏の子弟が寄宿し、大学寮に通った。900年・・・には大学寮南曹として公認され、勧学院と並び「南曹の二窓」と称された。奨学院の運営は勧学院に倣い、別当(校長にあたる)、学頭(学生の首席)などの役職が置かれた。大学別曹は、貴族の衰勢と共に衰微する。平安時代末期の12世紀頃には、奨学院も他の大学別曹と同様、衰微した。その後も奨学院別当職は、名誉職として残る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A8%E5%AD%A6%E9%99%A2

⇒将軍に任ずる家康が、将軍のまま日蓮主義の遂行を再開するようなことを極力防止するために、後陽成天皇は、将軍職自体を、源氏長者(等)に完全にリンクさせることによって、簡単に脱ぎ捨てることが憚られる「重たい」ものにした、ということでしょう。(太田)

(続く)