太田述正コラム#1415(2006.9.21)
<法王の反イスラム発言(続x3)>(有料)(2007.3.5公開)

1 始めに

 イランの最高指導者ハメネイ師(Ayatollah Ali Khamenei)が9月18日に、法王の発言は、「<イスラム世界に対して>十字軍を次々に送り込みつつある陰謀の一環である」と法王を非難した(
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/5356820.stm
。9月19日アクセス)ので、一体どうなることかと思っていたところ、その翌日の19日、あのアフマディネジャド大統領が、「法王は発言を修正したと考える」と法王の謝罪を評価する発言を行った(
http://www.nytimes.com/2006/09/19/world/europe/20popecnd.html?pagewanted=print
。9月20日アクセス)のでほっとしました。
騒動は収束に向かいつつあるのかも知れません。
 もっとも、これは、法王の講話におけるイスラム批判が「理論的」過ぎて、その批判がいかにひどいものかをイスラム世界の有識者達が十分咀嚼できていないためかもしれません。
 そうなると遺憾ながら、法王がイスラムと理性(理論)は相容れない、と示唆したことが正鵠を射ていることになります。
 いずれにせよ、法王ベネディクト16世がいかにアナクロで狭量で難解な言葉を弄ぶ人物・・言葉を凶器として振り回す狂信者、と言ってもよかろう・・であるか、われわれのような非イスラム世界の住民、とりわけ非一神教世界の住民は、頭にたたき込んでおく必要があると私は思います。

2 法王の問題発言

 (1)同性愛
 同性愛性向があったとしてもそれは罪ではないが、それは多かれ少なかれ内在的道徳的悪徳(intrinsic moral evil)に向かう強い傾向であって、この性向はそれ自体客観的不整序(objective disorder)であると見なければならない。従ってかかる状態の者に対しては、特別な憂慮と聖職者としての気遣いが向けられなければならない。さもないとこれらの者はこの同性愛的行動への傾きに身を委ねることが道徳的に許容される選択肢であると思いこむ可能性がある。しかし決してそう(=それは道徳的に許容される選択肢)ではないのだ。

 (2)仏教
 <仏教とは、>ナルシズム的精神性(Auto-erotic spirituality)<、あるいは、>精神的自慰行為の一種(a form of masturbation for the mind)<にほかならない。>

 (3)女性の神父(ordination of women)
 (7人の自らを神父(priests)と呼んだ女性達を破門したことについて、)かかる処罰が科されたのは正しかっただけでなく必要なことだった。そうしなければ、真の教義を守り、<カトリック>教会の同朋意識(communion)と統一を確保し、信仰篤き者の良心を善導することはできない。

 (4)同性間結婚
 <同性間結婚は、>母と父という自然な二人の親の形をとった家族を危機に陥らせ、多様な形の性別(polymorphous sexuality)という新しいモデルの下で、同性愛と異性愛とを実質的に同等のものにしてしまう。

 (5)ロック・ミュージック
 <ロック・ミュージックは、>反宗教の伝達手段(vehicle)<、あるいは、>罪の贖いを信仰するキリスト教の完全なアンチテーゼ<である。>

 (6)クローン
 <クローンは、>大量破壊兵器より危険な脅威<である。>

 (7)アウシュビッツにおける講話(要約)
 私はドイツに生まれたが、ホロコーストに関しては有罪ではない。ナチズムは犯罪者集団の責任であってドイツの人々は他国の人々同様、彼らの犠牲者だ。ホロコーストの真の犠牲者は<ユダヤ人というより、>神でありキリスト教だった。

3 既出以外の法王の問題行動

 (1)イスラム嫌いのジャーナリストとの交友
 先週亡くなったばかりのイスラム嫌いで悪名高いイタリア人女性ジャーナリストを、法王はしばらく前に私邸に招待して懇談し、顰蹙を買いました。彼女は、「イスラム教徒はネズミのように繁殖する」とか、「イスラム教徒がイタリアを始め欧州でどんどん増えるのに正確に比例してわれわれは自由を失って行く」と発言した人物です。
(2全部及び、3はここまで、
http://www.guardian.co.uk/pope/story/0,,1875791,00.html
(9月19日アクセス)による。)

 (2)宗教観対話への消極性
 イタリアのアッシジ(Assisi)において行われる宗教間対話会議は、前法王が20年前に始めたものですが、昨年、法王はこの会議で重要な役割を果たしてきたアッシジのフランシスコ修道会の僧達の自治権を奪う措置をとりました。
また、前法王は欠かさずこの会議に出席してきたのに、今年のこの会議に法王は欠席し、自分の講話を代読させるにとどめました。
 これらは、宗教間対話そのものに対する法王の消極的姿勢を現すものと取り沙汰されています。(以上、
http://www.nytimes.com/2006/09/20/opinion/20wed3.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print
(9月21日アクセス)による。)